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批評祭2008参加作品一覧

*掲載の可否に関してお返事をいただけなかった作品については、現代詩フォーラムの該当作品へのリンクをはる形で対応しています。掲載の許可を下さる場合は、メールフォームからメールしていただくか、コメント欄にコメントをいただけると助かります。よろしくお願いします。



批評祭に先駆けて(1)
批評祭に先駆けて(2)

相田九龍   
 ・批評祭開催に寄せて
 ・オリジナリティ幻想・忘我

梓 いっせー   
 ・鏡の詩「フィチカ」

石川和広   
 ・狐のかわごろも
 ・走るレプタイル
 ・砕かれていること

大村 浩一   
 ・食い違う夢 ―『私たちの欠落(夏の日の)』藤丘 我流読解―

岡部淳太郎   
 ・気風は断絶したか?
 ・気分と物語
 ・時が終る、詩が始まる
 ・喪服の者たちが向かうところ
 ・いま詩を書くということ
 ・余白について考える試み ・〈日常〉へたどりつくための彷徨 ――坂井信夫『〈日常〉へ』について
 ・回り道、つぶやく。 ――五十嵐倫子『空に咲く』について
 ・難解さへの接近
 ・怠惰な物差し ――あるいは違犯と視線について

風音   
 ・「批評によせて」

清野無果   
 ・僕の現代詩

ケムリ   
 ・存在の耐えられない軽さ、再びぼくたちの間に

木葉 揺(このは ゆり)   
 ・犬の登場する詩

桜ヶ丘   
 ・詩について書いてみる 詩は歌うもの 物語は読む物

たりぽん(大理 奔)   
 ・「美しいミサイル」 いとう
 ・「にぎやかな街」 水無月一也
 ・「あなたについてのモノローグ」  佐々宝砂
 ・「散文的な夏」 岡部淳太郎

仲 仲治   
 ・現代詩手帳1月号を軽く立ち読んで
 ・押井守監督の影響がこんなところにも
 ・2ちゃんねるの現代詩フォーラムスレッドを読んで
 ・なんちゃって岡部淳太郎批評論
 ・向上意識を意識しない私の言い訳
 ・ミサイルという欲望/小人という社会的な私たち
 ・JTNスレッド 1
 ・JTNスレッド 2 ・JTNスレッド 3
 ・JTNスレッド 4
 ・現代詩フォーラムの「黒歴史」
 ・批評返しレッスン 基礎編
 ・虚数さんのコメントを読んで考えたこと

服部 剛   
 ・芭蕉庵にて
 ・詩友への手紙 ~この世を去った友へ~
 ・吉野弘氏への手紙

比呂   
 ・それでもあなたは旗だ  詩人・映画監督 園子温
 ・山頭火の なんでもないよ から燃え出づる業火
 ・ARE YOU EXEPERIENCED?

広田修   
 ・雑記1
 ・現代詩の記号論1
 ・現代詩の記号論2
 ・クラシック音楽についての印象

渡邉建志   
 ・時を止める―「殯の森」と「ノスタルジア」における垂直のメタファー

mizu K   
 ・ダイアリーポエム調の散文

PULL.    
 ・「 そやから何で阿呆やねんやろとツッコミ待ちで考えてみる。 」
 ・「 この際なので批評祭の主催者をちょっぴり意地悪くイジってみる。 」
 ・「 寝た子は起こすなそやからおちんちんについて勃起しないで考えてみる。 」

Ю(ユー)   
 ・カフカのように孤独に

2TO   
 ・詩投稿サイトについて
 ・ネット詩fの裂け目から
 ・詩のない批評:「反射熱」へ宛てて
 ・僕たちの罪は、どうすれば癒されるのだろう
 ・余白の海についての試論
 ・You?
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怠惰な物差し ――あるいは違犯と視線について/岡部淳太郎

 個人と社会の関係性を考える時にどうしても気になるのが疎外の問題だ。気になるというよりも、個人的にはぬきさしならない命題として私の頭の中に長年こびりついてしまっていると言った方が良い。恥ずかしい話だが、基本的に社会生活というものが苦手で自ら進んで群衆の外に身を置きたがる悪癖が私にはある。だから、どうしても社会から疎外された個人という問題が気になってしまうのだ。
 筆者の個人的な話はこれくらいにして先に進もう。いま私が考えているのは「違犯と視線」ということだ。違犯とは平たく言えば社会からの逸脱であり、視線は逸脱したものを眺める人々の眼差しということで、この二つが合わさった相乗効果によって個人は社会から疎外される。このへんの構造を少しばかり考えてみたい。
 違犯という言葉を辞書で引くと、「法令にたがい、罪を犯すこと。法を破ること」(『広辞苑 第二版補訂版』)と書いてある。この定義に従うと法律に抵触した者、いわゆる犯罪者のみを扱うということになるが、これだけでは私が考えている問題をカバーするには足りない。ここではそれを、前記の定義に加えてかなり大ざっぱに「社会の秩序やその空気を乱す、またはその恐れがあると考えられる者」として論を進めたい。
 世の中には数え切れないほど多くの人間が住んでいて、その個性はそれぞれにばらばらで千差万別だ。そのばらばらな個人を束ねるのが社会というシステムであり、それを十全に機能させるために法律や常識といったものがある。人が日常を生きるということは社会の中で生きるということであり、個人の力に限界がある以上ほとんどの人は社会の中で社会のルールに従って生きることを選ばざるをえない。より正確に言えば、幼い頃から社会の中でまっとうに生きることを周囲から教育されて育つことで、そこにモラル感や人が先天的に持っている自己防衛本能などが働くことによって、社会の中でまともに生きなければならないという意識が育てられていくのだ。だが、最初に書いたように人の個性は千差万別であり、時に社会の枠からはみ出した個性を持つ者が出てこざるをえない。そのような突出した存在が現れるのを社会は望んでいない。社会の中の一構成員として過不足なく生きるのに成功している人たちも、そのような存在を望まない。というより、疎ましく思ってしまうようなところがある。何故なら彼等はそれぞれ独立した個人でありながら、いっぽうでは社会に溶けこんで十全に生きているという時点で社会全体の意志を代弁する者になってしまっているからだ。こうして突出した存在は社会から疎外される。精神的にも物理的にも疎外されて、後にも先にも行けない状態になってしまう。
 ここで言う「突出した存在」とはすなわち存在そのものが違犯であるような人間、または意識してか無意識のうちにか違犯としての部分を抱えてしまった人間のことである。その違犯とは先ほど挙げた法に背くことだけに限らない。人より行動や思考が鈍かったり、何らかの病気に罹っていたり、背が低い醜い容姿をしている等の身体的特徴であったり、特異な趣味嗜好を持っていたりと、およそ人間が持ちうるありとあらゆる「個性」が挙げられる。言い換えれば人は誰でも違犯者になりうるのだ。卑近な例を挙げると、知能に優れた者が学者たちの中にいても目立たないが、普通の人々の中にいれば「あの人は学者さん」ということで自分たちとは違う存在として見られてしまう。その時々で属する場所によって、優性は容易に劣性に転化しうるのだ。社会の中に数多ある小さな共同体はそれぞれに社会全体の縮図であるから、その共同体の意にそぐわない者は異端になってしまうし、逆にその個性が共同体の質と似通ったものであればその心配もないということだ。私自身も経験のあることだが、普段の近所づきあい等においては「詩を書いている変な人」という目で見られていても、同じような詩を書く人々の集りに参加すればそのようなこともない。むしろ能力によっては賞讃されることすらある。それと同じことだ。
 このように高度に複雑化した現代社会においては、誰でも違犯者のレッテルを貼られる危険性がある。それぞれの個性が社会全体から見て特殊なものであれば、その危険はいっそう増していく。だからなのであろうか。種々雑多な個性が多く集る都市部であるほど人と人の間に距離感がある。それは他人の個性を極力眼に触れないようにしてやり過ごそうとする現代人特有の生活術であるのかもしれない(逆に言えば、その距離が小さい地域ほどそこに住む人々の個性に大きな隔たりがないということでもある)。そうして人々の間の関係性が希薄になってくると、他人を理解しようという気持ちが次第に失われていく。そうすると、他人を単純に図式化して便利な物差しで計ってしまおうという気持ちになるものだ。それは何も違犯者だけに向けられるものではなく、こういう仕事をしているからこうなんだろう、あの大学を出たんだから偉いんだろうと、社会的に見て有益と思われる特徴に対しても単純な図式を当てはめて見てしまう。ましてやそういう思考法が違犯者に対して向けられると、人々の視線は冷たいものにならざるをえない。他人について本当に理解しようと思わないから扱いはぞんざいになるし、他人のことを本当に考えようとしないから自らの心も人からの良い影響を受けずに狭い範囲に留まったままになってしまう。そこから現代社会が抱える人間の関係性を軸にした諸問題までの距離はほんの一歩であろう。
 他人に単純な図式を当てはめて、何となくわかったつもりになるのは罪深いことだと思う。そうして当てはめた図式は便利な物差しではなく、怠惰な物差しであるということに気づくべきであろう。突出した個性を持つ者を前にして「きもい」のひと言で済まそうとするのは、個性の異なる者を最初から締め出そうとする態度であり、そこに留まったままではお互いに成長は望めない。長い目で見れば自分にとっても非常に損なことをしているのだ。また、違犯という言葉の本来の意味に立ち返ってそれを法を犯してしまった者としてみるならば、「犯罪者」として白眼視することで彼が社会の中でやり直そうとするのを妨害していることにもなり、それが再犯を誘発することになるのであれば社会全体にとっても好ましくないだろう。
 言ってみれば、違犯者を違犯者としてのみ見ることは、彼を社会全体から疎外すると同時に、そのような視線を送る自分自身をも疎外させているのだ。いじめをした者はその自覚がないということがよく言われるが、それ以上に違犯者を疎外することによって自分自身も疎外しているということにほとんどの人は気づかない。そこに気づくことが出来ないのは、忙しい現代社会でその日一日を生きることにせいいっぱいの現代人の限界であるのかもしれない。だが、怠惰な物差しで簡単に規定できるほど人は単純ではないということぐらいは気づいてもいいだろう。誰もが多かれ少なかれどこかはみ出した部分を持っているのであり、違犯者になりうるか否かはそのはみ出し方の多寡でしかないのだ。結局、異常だとかおかしいとか言われている者は人よりも多くはみ出しているというだけで、本質的に考えればいわゆる普通の人との間に差異はない。現代という時代の複雑さは人々を等価にする。昔ならば富豪と貧者の間には明確な線が引かれていたかもしれないが、現代にはそのような明確な区分は存在しない。だから誰もが一夜のうちに英雄になれると同時に、違犯者として落ちぶれてしまうこともありうる。違犯者を眺める視線が怠惰であるのは、彼が違犯しているという「いまこの時」しか見ていないからであり、もしかしたら他にありあまるほどの美点があるかもしれないのに、違犯しているということのみによって彼の全人格を規定しようとするからだ。そのような視線を送っていた者が、違う時や状況の下では新たな違犯者となってしまうかもしれない。明日はわが身なのだ。人を図式化して見るのは真の理解ではなく、狭い自我への退行である。あまりにも多くの他者が生きている社会においてすべての見知らぬ他人への理解を望むことは不可能であろうが、願わくば、他人に対して礼を失することのない優しい社会であってほしいものだ。



(二〇〇八年一月)

難解さへの接近/岡部淳太郎

 実を言えば、詩の現場で実際に書きつづけている人々にとっては、外部の者がどう言おうと関係ないのである。それぞれがそれぞれに優れた詩を書きつづけていれば良い。詩に向かう動機や信念は人によって様々であろうから、それに口を差し挟む必要もない。詩の書き手はいつもそれなりの敬意を持って詩に接している。その態度に揺らぎはないだろう。だが、時にどうしても詩の外部から向けられる声が気になってしまうことがある。昔からずっと言われつづけてきた「詩の難解さ」ということを始めとする、詩に興味を示さない人々の視線が気になって仕方がないことがある。
 詩という文芸ジャンルは、特に日本においては周囲の動向を無視して気ままに歩いてきたように見える。だが、それと同時に詩ほど外部の声を気にしてきたジャンルも他にないのではないだろうか。一般の読者を置き去りにしつつもいっぽうで彼等に色目を使う試みを何度も繰り返してきたのが詩であり、そのようないっけん矛盾しているとも取れるような心理は詩のアイデンティティの不安定さを表しているようにも思える。いわゆる「難解な詩」がいくつも書かれるいっぽうで、幾度もわかりやすさへの接近が試みられ、押韻定型などの古い源流へ遡ろうとする動きがあった。詩は前に進もうとしてもなかなか進めずに、何度も足踏みをしてきたようにも見える。そうまでして詩を立ち迷わせている心理とはいったい何なのであろうか?
 ひと口に詩といっても、その適用範囲を思いつく限り大きく取ってみれば、詩という名の下に様々な形態のものが表われてくる。一般人にとってもっとも親しみのある歌謡の詞、わらべうた、短歌や俳句などの伝統的な短詩定型、あるいは漢詩、あるいは宗教的な祈祷や呪文の言葉も詩であるかもしれないし、「おまえは詩人だな」と言う場合や日常生活における抒情的な場面での「詩」もあれば、近代詩や現代詩もある。このように詩という言葉が示す範囲は非常に広く、それは詩の守備範囲の広さを示すと同時に、他方では詩の立場の危うさ、詩の不安定さを示してもいる。それらひとくくりに「詩」と呼んでしまえそうな様々な小ジャンルの中で詩は揺らいでいる。また一般の人々の方にしてみれば、別に現代詩でなくても詩を享受する方法はいくらでもあるから、あえて小難しいイメージのある現代詩になど近づこうとはしない。他に取替え可能なものがごろごろ転がっているのだから、手軽に入手出来る「その他大勢」を選ぼうとするのはごく自然な成り行きであると言える。ひとつのジャンルが果てしなく細分化し複雑化するのは現代社会の常であるが、日本における「詩」という概念はとりわけそれが著しい。現代詩はそれらの同じく「詩」と名づけられた隣人たちと肩を並べて、いささか居心地の悪い思いをしているように見えてしまう。
 詩のこうした曖昧模糊とした感じが人を詩から遠ざけると同時に、詩の自立をさせにくくしている。どうしても外部の声を気にしてしまうのは詩がマイナージャンルであるがゆえなのかもしれないが、そうして外部の声を気にしつづけることで、よりいっそう詩は不安定になっていっている。他者の視線を考慮に入れることが自立を阻んでしまっている。たとえば「わかりやすい詩」とはいったい何であろうか? 単純に言えば、詩に関係のない一般の人々であっても読めばすぐに了解出来る散文的な文脈で書かれた詩のことであろう。一種の読者サービスと言ってもいいかもしれないが、サービスとはいつもオプションであるべきであり、サービスすることそのものが本意であってはいけないと思う。わかりやすい詩がいけないというのではない。結果としてわかりやすくなったり、そのようにしか書けないとかそのように書くことが合ってる等の理由でわかりやすいものになっているのであればいいのだ。そうではなく、最初から一種の態度として読者を意識して目指すわかりやすさというのがいやらしいのであり、やや大げさに言えばそれは詩の中心にあるべき内実がないままで書かれてしまっている。それは、そうした読者サービスとしてのわかりやすさを目指す書き手の多くが忌み嫌う、「現代詩壇」的な難解さのドグマに落ちこんでがんじがらめになっている詩と同じ過ちを犯しているのだ。両者に共通するのは内実がおろそかになっているという点であり、外面の意匠としてのわかりやすさや難解さの皮を剥いでみれば同じ荒涼が広がっているのだ。
 私は表面的な意匠としてのわかりやすさが詩を救いうるとは思っていない。そんなものはたわごとであると言ってもいいくらいだ。詩の朗読を私もやることがあるが、それはあくまでも趣味としてであり、詩を朗読することが詩の読者の裾野を広げるなどとは信じていない。それは一種の迷妄であり、詩の本質や社会的立場を考慮に入れることのないおめでたい考えであると思っている。詩とは書くことによって常に差異が意識されるものである。一般の人々との差異。社会や時代との差異。これまで書かれてきた多くの詩作品との差異。日常言語との差異。大文字の「詩」との差異。そうしたもろもろの差異を抱えこんだ危険物として詩はあるのであり、決して外部と同調するためにあるのではない。また、多くの差異を抱えているがために、詩はいつも分裂している。だからこそ不安定であるのかもしれないが、少なくともその分裂が詩を詩たらしめてきたのであり、こうした差異や分裂が本質的に存在しているからこそ詩は難解なのだ。それは表面的なわかりやすさや難解さと関わりなくあるものだ。つまり、表面的にわかりやすい詩であっても、それが詩である以上は必然的に難解さを孕んでしまっていると言えるし、詩を書くということは、そうした難解さへと接近することでもあるのだ。
 いっぽう詩の外部にいる一般の人々に対しては、変な幻想は捨てた方が書き手にとっては良いのだろう。詩がここにあってなおも日々書きつづけられているのは事実だが、だからといって人々は簡単に振り向いてはくれない。私は最近よく詩の社会的立場というものを考えるのだが、それを思えば詩に関わりのない普通の人々が詩を(とりわけ「現代詩」を)気にしてくれる可能性は限りなく低いと言わざるをえない。私の考えでは詩が人々に受け入れられないのは、そうした詩の社会的立場とともに、日本人独特のものの考えや時代的背景等もかなり影響していると思う。ひとりの書き手が頑張ってどうにかなるレベルを越えていて、一筋縄では行かないところまで来ているのだ。そうでなければ、これまでさんざん詩と読者の関係が言われ、詩の現場の方でもそれなりの試みをしてきたのだから、この問題はとっくに解決していてもおかしくはないだろう。
 詩とは誰のためにあるのでもない。作者のためでも読者のためでもないし、ましてや「詩壇」のためにあるのでもない。詩は詩としてそこに静かに存在するだけだ。書き手としては、とりあえず書いていき、そのいっぽうでそれぞれの人生を生きていくしかない。また、詩の外部の人々も同じように生きていくだろう。その両者が出会うことがあるとすれば幸福なことに違いないが、幸福とは目指すべきゴールではなく、ひとつの結果として恩寵のようにもたらされるべきものなのだ。



(二〇〇八年一月)

You?/2TO

批評祭から遠くはなれてみる。
アフリカじゃ紛争が終わりそうもないし、パレスチナなんて終わりもまったくみえてこない。
一方で、キャンパスでメシ食ってのうのうとしてる奴だっているし…たぶん私だってそう。
誰かがカネをもうけてて、他のとこには何にも周ってこない。
それに人間はみんな罪背負ってて、どーにもこーにも赦されないらしいっていう、とんでもない不条理。
それに比べれば、ここや2ちゃんで誰かが起こしあってる応酬なんて、何てこともない。

私はチャップリンの「街の灯」っていう映画が人類史上一番の映画だと思う。
それには人間が生きていくってことが全部入ってるから。
「Be brave, Face life.(勇気を持て、立ち向かえ。)」ってチャップリンが自殺しようとした男に言う。
こんなたった4語で、生きていくのに一番大切なことが言える。
「You?」って、最後に眼が治った女性はチャップリンに言う。
それを聴いてチャップリンが笑う。ほんとうに嬉しそうに笑う。
どんなに人に、自分自身に絶望しているときだって、それを観ると必ず泣いてしまう。
少しだけ立ち上がろうという想いが湧いてくる。

「You?」っていうセリフは、全映画史を通じて最高のセリフだと思う。
凡百の詩句よりも詩篇よりも、この一言の方がずっとずっと強い。
映画批評とか映画史だとか……そんな論には表すことのできない素晴らしいものがそこにはある。
たぶん、この言葉ひとつでチャップリンはあの後ずっと生きていけるのだから。


そんなに長くも生きてはいないし、そんなに多くの人に出会ったわけでもない。
だけど悲しい人もいた。酷い生活の人も、そして、去りゆく人にだって会ってきた。
そこには様々に交わされる言葉もあった。優しい言葉、笑える言葉、
時には、ひどく傷つけあう言葉さえも。

詩や作品は、そういった感情や言葉が創り出した一片の雪の結晶だ。
それを読むこと、観ることは、あなたの静止した水面に雪が落ちること、細かにその表面を波立たせることだ。
震える湖面、その奥底にあなたが見つけ出したものこそが、たぶん「美しさ」と呼ばれるものだろう。
そして批評するとは、指を結晶に触れ、その体温をもって雪を水へと還すことでしかない。

―――「触れること」。
その仕方によっては暴力でありうるだろう。また時には労わりを、優しさをもって抱きしめることでもあるだろう。
この腕、この指、あるいは言葉や眼差しによって、誰かの名づけられた感情や想いに自分の体温をうつすこと、
雪の冷たさを温もりとして、時には一粒の涙の代わりに、それを重力に乗せることであるだろう。
でもそれは結局、人が生きることでしかないのだ。


本当のことを言えば、誰かの詩の出来が良いか悪いかなどどうでもいい。
あなたが書きたいことを好きなように好きな言葉で書けばいい。
けれども、覚えておいてほしいと想う。
すべての詩、言葉において大切なのは「You?」と言えること、つまり、「あなたに生きてほしい」と伝えることだ。

そして批評において大切なのは、彼女が「You?」といった後に映し出されるチャップリンの笑顔の、そのまた後の、
スクリーンには映し出されることのなかった光景(シーン)を描き出すことだ。

それは、おそらく彼ら2人が互いの手を握ること、そして言葉と言葉とを交わすこと、
つまり「触れ合う」こと、人と人とが「生き合う」ことの光景であるはずだから。

虚数さんのコメントを読んで考えたこと/仲 仲治

 虚数さんが私の散文『現代詩フォーラムの「黒歴史」』にコメントを寄せてくれて、いろいろ面白い発言や質問があったので、これに答えていくことによって、私の考えを明らかにするのもいいかな、と思い、書いていきます(始めに断っておきますが、これは互いの主張の優劣や勝ち負けを決める為に書くのではありません)。
 ちなみに、この散文は虚数さんが書いてくれたコメントを、私の意図にそって、私の主張を展開するのに使わせてもらったもので、虚数さんへの直接的な返答になっていないであろうことを、断っておきます。

「どうしてトラブルが起きるのか、どうしたらトラブルを解決させて回避することが出来るのか、このことを考えずに何が批評なんだ、それが出来なければ、批評なんて口だけの戯言だと思いますよ。」と私は『現代詩フォーラムの「黒歴史」』の中で書きました。いきなり結論なんですが、第三回批評祭を通して仲仲治が表現したかったのは、このことを読み手である現代詩フォーラムの参加者たち、現代詩フォーラムに何らかの形で関わっている傍観者たちに、自分の問題として考える必要性を感じてもらうことでした。そうしなければ、トラブルはなくなりませんので。ほとんどこれは「どうしたら平和になるのか」を考えることです。それも「みんなが平和に楽しく参加していけるか」という、無謀な試みでしょう。
 どうしてこんなことをやっているのか。主催者の相田九龍さんの意を、私が勝手に汲んでいるからです。相田さんのいろんな散文や書き込みを読んで、私が勝手に翻訳して、自分の問題として書くことによって、第三回批評祭の成功に一役買いたい。そして、賞も欲しい(やっぱり賞品も欲しいです)。
 仲仲治流に翻訳しているので、相田さんの考え方、望むあり方とは異なる方向で、私は第三回批評祭に参加しているのかも知れません。実のところ、この「異なる方向」に、相田さんに対する私の批評が込められています。

 さて、虚数さんは「トラブルのもと」だと述べていますが、私は「もと」であったとしても、トラブルにはならないと読んでいます。それは、相手がHさんだからです。Hさんでしか通じないやりかたで、私は彼と間接的な関係性を築いています。Hさんと私は、批評する者と批評される者です。それも、お互いに書き込むサイトが異なっています。二重の意味で「間接的な関係」なのです。
 私は以前、現代詩フォーラムでHさんと直接的にやりとりしてきて、この程度の私の誤解には傷付かないことに、確信を持っています。信じている、と言ってもいい。この程度で本当に傷付くなら、私は今後一切、彼のことを書きません。もしそうならば、Hさんに悪いことしたな、とは思うし、真摯に反省しますね。
 実際、2ちゃんねるの現代詩フォーラムスレッドで、Hさんはハッスルしているみたいですし、私に対する批評の口実を与えていても、私の誤解で彼にダメージを与えていないように見えます。それと、虚数さんは「haluさんなのか冷やしさんなのか、それとも別の人なのか、誰でもいいのでHさんと書きます」という書き手側である私の文章に込めた意図を読めきれていません。Hさんと私の「間接的な関係」を考慮に入れていないからだと、私は推測しています。

「発言者が誰であろうとかまわない」という虚数さんの意見、面白かったです。私はまだ2ちゃんねるの特性を熟知していないのですけど、「匿名でコメントを書き込むことはどういうことか?」が分かりません。匿名とは「発言者が誰であろうとかまわない」なのではないか、と思うのですが、「誰であろうとかまわない」とは「誰であってもかまわない」ということのようにも考えられてしまい、中傷行為というならば、2ちゃんねるで書き込まれるコメントの中には中傷行為があるのではないか、とついつい考えてしまう私がいます。2ちゃんねるならばかまわないけど、現代詩フォーラムの散文コーナーではいけない根拠が、私には分からないのです。

 虚数さんの「私が公の場に疑義を提出する際には、なぜそのような疑いを持つのかという点について、具体的な根拠にもとづく説明をします。」という意見も面白いのですけど、ここでいう「公の場」とは、現代詩フォーラムの散文コーナーのことですね。では、2ちゃんねるの現代詩フォーラムスレッドは「公の場」ではないのか、と。「ネット上に公開されて、見ようと思えば誰でも見ることが出来るのであれば、ここと変わらないじゃないか」なんて私は考えてしまうのです。もちろん管理人が異なるので、ルールは違います。その差異を踏まえた上で、「公の場」であることは同じだと思ってしまう。そんなふうに考えたり思ったりする仲仲治は、他人からすれば、勘違い野郎で、おかしなことばかり思考してしまうへんな人間なのかも知れません。

「問題は、いつどこで誰にどのようにしてその問いを繰り出すかということなんです。」なるほど、では「どこ」という場所も問題だとして、現代詩フォーラムと2ちゃんねるの現代詩フォーラムスレッドの違いはなんなのでしょう? Hさんがしている私への批評はただの悪口で、私がしているHさんへの文章は批評だからいけないのでしょうか。つまり、2ちゃんねるの現代詩フォーラムスレッドには一切の批評行為はなく、あるいは、なくてもかまわない場所なのか、ということです。私は、2ちゃんねるの現代詩フォーラムスレッドにも批評行為はなされていると考えています。Hさんの私へのコメントも批評だと捉えていますし(言われている側からしたら、「そうじゃねえだろ」ってのも多々ありますけどね)。

 肝心なことを書き進めていきます。
「「一人の人物がプロキシを用いて書き込みを行っているので、別のIPと認められて異なるIDが生成されているケース」が考えられます。」
 ならば、虚数さんの指摘は間違いかも知れない可能性があります。正直、私は虚数さんと面識というか、やりとりしたことが今までなかったですし(少なくても「虚数」という名前の人と)、虚数さんが本当のことを言う人か、嘘をつく人なのか、判断しかねています。これは、「虚数さんのコメントは私に対する悪意なのか善意なのか?」ということです。ボルカさんのコメントは、私への善意だと思えるのですけど、それは今までのボルカさんと私の関係性から、判断しています。
 私にとって、虚数さんは初対面の人です。ぜんぜん知らない人です。そういう人の意見を疑わずに信じられるほど、私はお人好しではありません。だから疑って、絶対そうだ、という「客観的事実」を示してもらわなければ、疑う余地が残ってしまいます。
「考えられます」ではなく、虚数さんの経験論的推測でもなく、「客観的事実」を示してもらえば、虚数さんへの感謝の言葉とともに、すぐに訂正させてもらいますよ。虚数さんのコメントを読んで、「「仲仲治死ね」の発言者=冷やしさん」の可能性は、私の中で少なくなりましたが、ゼロになっていません。「客観的事実」が薮の中だからです。

「あなたはこの世に客観的事実など存在しないとでも思っておられるのでしょうか。」というコメントも、面白いですね。私は「あるにはあるけど、それを証明するのは大変でめんどくさいことだな」と考えています。「私の夢のなかのことでしかないこと」ではないのを証明することが、めんどくさくて大変なように。だから、私はめんどくさがり屋なのです。

 食ってかかるような感じになりますが、そうではありませんので、悪しからず。
「あなたの議論は妄言でしかないとひとに思われやすいのです。」と虚数さんは書いていて、その「客観的事実」の根拠は書かれていません。これは、論の矛盾です。別に私はそう思われてもかまわないですし、そう思っている人もいるでしょう。しかし、そう思わない人もいるかも知れません。これが私にとっての「客観的事実」です。およそ人のことで「客観的事実」なるものが証明されることはあるのでしょうか? あったとしても、それはほとんどの場合、限定された「客観的事実」だと思っています。つまり、私にとっての「論理の限界」です。

 虚数さんの書かれる「ひとびとに対し自説を展開する以上は、あなたにとってもひとびとにとってもある程度確かとされうる事柄にのっとるべきです。なぜならそうしない限りは、ただ単に孤立したアナーキーな言説を生み出しかねないからです。」アナーキーな言動でかまわないではありませんか。「ある程度確かとされうる事柄」の「ある程度」ってのは曖昧な基準ですし。
「ただ単に問うことなら誰にでも可能なんですよ。」だから、仲仲治でもやれています。みんなやればいいのに、とさえ思ってしまいますよ、これを言われてしまうと。
 みんな、問うところからやればいい。問うて、考えたりいろいろしていく内に、答えらしきものが見えてくる。この答えらしきものが、人と違っていたり「客観的事実」と違っていたとしても、その人にとっての真実なのですから。


※私にとって、虚数さんのコメントは面白かったですし、とても参考になったので、その感謝の意も込めて、虚数さんのコメントを受け入れ(ボルカさんのコメントもありますし)、全面的に『現代詩フォーラムの「黒歴史」』で虚数さんが問題にしている箇所を書き直します。
(Hさん、読者に誤解させるような書き方をして悪かったです。これからもハッスルして下さいね。でも、あんまり私以外の人のことは書かないで欲しいのです。私は気分を害しませんけど、そうではない人もいますので。あなたの批評は、時に正確かつ冷徹ですからね。現代詩フォーラムスレッドでの活躍を期待しています)


関連作品リンク

仲仲治『現代詩フォーラムの「黒歴史」』
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=146580&from

仲仲治『現代詩フォーラムの「黒歴史」のPointViewer』
http://po-m.com/forum/pointview.php?did=146580&from
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