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批評祭2011参加作品一覧

「批評祭。」「批評祭?」「批評祭!!」
第5回批評祭開催にあたって

藍沢コウ   
 ・厚顔無恥
 ・読まれてナンボ

相田 九龍   
 ・ショートレビュー
 ・詩を特別だと思ってる人たちへ

石川敬大      
 ・近代詩へのリンク ー富永太郎試論ー
 ・石原吉郎の可能性 ー石原吉郎試論ー
 ・遊びごころという本気 ー辻征夫試論ー
 ・詩と小説の境目「とげ抜き」について
 ・主観という自家薬籠中の物
 ・まど・みちおの戦争協力詩
 ・空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集
 ・文法に果敢に肉薄する文学
 ・「へんてこな作家」という名の親愛の情

小川 葉   
 ・この世界を特別だと思ってる人たちへ(相田さんへのレス)

奥主 榮   
 ・不完全なる真空

かのっぴ   
 ・いい仕事の核

蛾兆ボルカ   
 ・詩論

桐ヶ谷忍   
 ・批評以前の話

口菜はたま   
 ・アニメ『ハートキャッチプリキュア!』に見るソーシャル・ワーク

黒崎立体   
 ・平川綾真智「胎児」について

空丸ゆらぎ   
 ・詩について、いくつかのこと

谷森   
 ・絶対おまえら詩とか書いてる場合じゃないから。

ツユサキ   
 ・レビューを書かない7つの理由

仲 仲治   
 ・詩とは耐える耐えられないじゃない
 ・評価されるとは何か
 ・批評なんかしても仕方がない
 ・盗んだバイクで走り出す
 ・リタイヤした先のこと
 ・さぜんちゃんへの手紙
 ・熱き原石
 ・善悪の境目
 ・共感覚
 ・私のリアル感じてね
 ・批評論のようなもの
 ・12・ラスト

西山善太郎   
 ・むしろ詩とか書いた方がいい。オヌヌメ。

虹村 凌   
 ・アセスルファムKは消化吸収されないからカロリー0の甘味料なんだ【虹村 凌】
 ・泣いて啼いて哭いて、弱虫(チンピラ)をやめてぇ【ニジムラ、いい加減にしなさい】

番田   
 ・自分の「批評」について
 ・村上春樹の過大評価を考える

比呂   
 ・作品の汗の臭い

ヒロア木   
 ・教科書の詩、詩誌の詩、現代詩フォーラムの詩

古月   
 ・現代ホラー映画50選(1)
 ・現代ホラー映画50選(2)
 ・現代ホラー映画50選(3)
 ・現代ホラー映画50選(4)
 ・現代ホラー映画50選(5)

丸木橋三ツ雄   
 ・馬鹿馬鹿しい人生
 ・Tストリート(路上詩人論)

八柳李花   
 ・ネット詩の耐えられない軽さ

藪木二郎   
 ・わかンない!

山人   
 ・現代詩フォーラムのポイントについて、その他

竜門勇気   
 ・批評会会会」「参参」加作」作作作品品品」品」 ”水”
 ・theピーズ

KETIPA   
 ・批評祭をやろうぜ
 ・小笠原鳥類×小林銅蟲「ねぎ姉さん」

mizu K   
 ・となりに、近くいる人は簡単には理解しえない。 佐藤泰志『海炭市叙景』のこと

pneuma   
 ・ドグマティック・ラディカル・イデオロギーズ

rabbitfighter   
 ・朗読についていくつか

56513   
 ・書くということについて

……とある蛙   
 ・無意識と創造性
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作品の汗の臭い/比呂

 今日何ヶ月かぶりにログインしてみると、私信が一通。相田くんから手紙が来ていて開いて見ると批評祭。投稿作品読んでないけど折角だから何か書いてみます。


 桜台駅と高円寺駅は、お互い路線が平行して走って交わらないのでバスに乗ってよく移動するのですが、東京の晴れた日のバスっていうのはとても気持ちがいいです。バスの窓はとても大きいし、電車より街中を走りますから景色もいいし。日本のバスのアナウンスってすごく丁寧だし。小さい頃なんかは休日に親に連れられて、バスにのってデパートへってのを経験した人多いと思うんですが、自分もそれでバスに乗ると子供の頃のおでかけ気分が条件反射で起こるんですね。あの頃街は今よりも大きく広く見えたし、都会には色んな魅力が詰まっていた。それで大人の今でも、急に街が立ち上がってくる感じがして気持ちがいいのかもしれない。とにかくバスの中の光の入り方がいいですね。差し込んで来てウールの座席が柔らかく反射してます。

 川端康成の「ありがたう」という短編でもバスの中の光線についての描写があります。盛り場の夜のお座敷に奉公に出されていく娘と、その事に胸を痛めながら仕方なく連れ添う母親の移動中バスのシーンにしぼられた話です。バスの中で娘は、通り過ぎる車たちに毎回ありがとうと言い続けるやけに人のいい運転手に恋をするんですね。自分を身売りへと連れて行く運転手がいい人でそれに恋をするってのはなんだか皮肉な象徴ですがまあそういう批評のまねごと的な事は置いといて、その時の描写として、窓から差し込む光を娘の前方に座った運転手の肩が優しく折り取っている、という感じでそれは書かれていたと思います。もうこりゃあ、好きになるしかないですよね。母親は道中に運転手に頼んで、どうか奉公に出される前に一晩だけ娘とお話してくれませんか?と頼むんですね。もちろんお話っていうのがほんとにお話じゃない事は皆さん察しが付くと思うんですが、お母さんあなたはほんとにいい仕事をしました。まあこの話は本旨と関係ないんですけど好きなのでみんな読んで下さい。w
 
 先日その素敵な都バスに乗っていた時のことなのですが、自分が乗った時にとある空席に、子供のニット帽が落ちていました。きっと落とした事に気付かなかったんだろうと思います。緑色のローゲージのニット帽です。お母さんが編んだのかどうかは分かりませんが、可愛らしい帽子です。で、妙にその子供服に自分は気をとられるんですね。乗っている間じっとそれを見詰めちゃうのです。光のせいもあって、奇麗だな、優しいな、何も汚れてないな、希望に溢れてるな、と思いながらおじさんが一人でニタニタして泣きそうな顔してるわけです。髭も剃り残してましたね。
 
 子供服っていうのは、子供がこの世に生まれてくる事のために用意されてるんですよね。だから服単体で見ても、そこにはまだ芽生えてない透明な子供の姿が世界の約束めいて浮かんでくるんです。次から次に新しい命が芽生えて、いつかこの子供服を着て、よく晴れた日母親とバスで二人でおでかけをするだろう。その子は街の大きさに憧れて、そして大人になって子供の頃の街を思い出すだろう。そうしたことが糸に染められ、生地に織り込まれ、縫われている。静かに服というただの道具、ただのモノとして横たわっている。

 母と子は一緒にいるだけでいつも絵になります。子供の孤独と母の孤独がぴったり接している感じがして、僕には夫婦よりも母と幼い子は夫婦に見えるし、恋人同士よりももっと恋人同士に見えます。小さな女の子ってベッドの上でぬいぐるみを抱っこして遊びますよね。それが何十年かたって、ぬいぐるみが赤ちゃんに変わるんです。といっても子供を人形扱いしてるというような意味ではなく、そのような意味論で見ていては子供の尊さはきっと分かりえません。まだ純粋な頃にぬいぐるみを抱えていた時と、同じ頃の無垢さ、単純さ、幸福に、何十年の時間の壁を越えて一瞬にして戻るという現象に思えるのです。そういう事を思いながら高円寺に降りました。独身の男なのに一体何を空想してるんでしょうね…。 
 

 さて、ここまでが前置きです。頑張ります。こうした子供服というのを、自分がとても羨ましく思えるのは、例えば詩であるとか、映像であるとか多くの芸術作品は、子供服のようなモノが存在しない事が基本だからです。(服が芸術でないという意味ではないです)もちろんDVDであったり本であったり、電子書籍にしてもモノではありますが、作家が一番苦心するのはそのモノの部分ではなく、モノではない部分になってきます。受け取った人、購入した人がそれを生活の中で使用する事はない場合がほとんどです。だから必要ないと言いたいわけではないですが、使用して何か生活の一部になる、という事にくらべ受け取った側がどうするか見えづらいと思うのです。ここのポイントでもそうです。あなたが書いた詩を煮込んでカレーにして食べましたー、とか、詩で部屋を磨いたら驚く程ピカピカになりました、とか、赤ちゃんに詩を着せてるんですが気に入ってるみたいです、などの対価がはっきりとしていなくて、感想もモノでない言葉でしか確認できない。きっと有名な作家になって日本中、世界中の人に鑑賞されるようになればなるほど、どう受け取られているのか、人に取ってどういう意味があるのか、もう分からなくなってくると思います。それに反比例するように、多くの人の目に触れるお金のかかったものならば、とても気味の悪い物な気がします。クリーニング屋さんのように、汚れた衣類を持っていってお金を払うと、後日奇麗になって戻ってくる、というような目に見えるモノが羨ましいのはそういうわけです。あなたの詩をそのまま言ったら彼女と付き合えましたー!くらいの事が常識的にあればまだいいのですが…。

 現在の詩の世界に関して言えば、ほとんど売り物にはなりませんね。だからこそ作家は自由に書けるという面もあると思いますから、売れない事は私は決して悪い事とも思いませんが、その反面書き手としては、自己顕示欲や自己嫌悪、自意識にのめり込みやすいだろうと思えます。そしてそれがどう使用されるか、というか受け取られるのかは明確に見えない。感動した、私の人生を変えた、救った、そう言葉で言われることはあっても、服のように実際に人の肌を包んではいない、椅子のように人の身体を支えてはいない、車椅子のように人の身体の一部の役割を果たすわけじゃない。それは観念的に相手の感想を信じるしかないし、あるいは相手の感想など全く意に介さず好きに読んで下さい、と思うしかない。これは実は大変孤独な事だなと思います。このダブルパンチは端的に言えば、作家の社会性を徐々に破壊して行く恐れもあるんじゃないかとすら思います。これは作品の質とか、道徳的な問題とかとはまた全然別の事だと思います。そういう点ではプロダクトに携わる職人というのはとても羨ましく感じます。バスに置き忘れられた子供服のように、何か世界の約束めいたものを感じさせられつつ、しかも道具として使用される形であれば作家はもっと随分社会にも適応していけ、悪い意味で特別な存在になる事はないと思うのですが。作家は大抵隔絶された場所で汗を流していますね。芸術家がパン屋くらい近い存在になる事はできないものか。
 本旨が前置きにくらべ、とても短く終了してしまいました。あまりその事に関して自分なりの提案が思いつかないからです。悔しいです。あと書いたあとに気付いたのですが、自分としてはあまり人に読んでもらいたいと思わないけど、売れる物なら何でも売って金にしたいなあ、という本旨と真逆の事も考えてるようです。w

むしろ詩とか書いた方がいい。オヌヌメ。/西山善太郎

 かつて官僚がふんぞり返っていた時代があった。今でも偉い感じがするが、昔ほどではない。なにしろ昔は「東大生がなりたい職業」の一位が官僚だったらしい。いや、今でも人気だし、もしかしたら昔と変わらず一位なのかもしれない(くわしく調べてないから判らない)。でも、たぶん昔ほどの圧倒的な人気はないみたい。と知り合いの東大卒のヤングが言っていた。彼は外資系コンサルに勤めている。
 なんで昔の官僚は偉くて東大生にも人気だったのか。それは、膨大な行政情報を集中させ、独占していたからだ。ん? 省庁って行政執行組織だろうに。その行政の専門家集団がそれに関する情報を我が物とするのは当たり前じゃないか。じゃあ今はそうじゃないってのかい? と思う向きもあるかもしれない。確かに、魚の美味い食べ方や旬の季節について魚屋に聞けば、打てば響くように正しい答えが返ってくるだろうし、「あっさりかつどっしりして、なおかつハートフルな感じで」みたいにアバウトな注文をバーテンにしてみても大抵それなりな感じのオリジナルカクテルが目の前に出されるだろう。つまり、餅は餅屋。行政屋は行政屋。官僚は確かに、昔も今も行政の専門家であることに変わりは無い。そのように情報が集中することは今も変わりはない。では何が変わったのかといえば、今は情報を「独占」できなくなった。そんなわけで官僚の相対的な地位もじりじりと落ちてった。
 その契機となったものの一つが情報公開制度だろう。懐かしの官官接待とかノーパンしゃぶしゃぶ(これはちょっと違うか)とかで、まあとにかく役人は国民に隠れて汚いこととか破廉恥なこと「も」やってきた(「も」としたのは私の良心である)。なので、日ごろ何をやってるのか俺たちにちゃんと説明せよ、という市民(ただしプロフェッショナルなほうの)の方々が騒いだことによって、それらの制度が整備されたわけだ。これによって官僚はかなり弱体化した。何しろ、これまで隠れてこそこそやっていた税金の無駄遣いとかポストの私物化とかが市民の方々(ただしプロフェッショナルなほうの)によって、正しい手続きを踏んで監視されるようになったわけだからね。いや、それでも抜け道はある。「個人情報保護」という錦の御旗によって公文書の肝心なところを黒塗りにしてみたりとか、そういう裏技チックなこともやる。でも、大方は官僚にとって例の制度はある意味かなりのダメージとなったわけだ。さらに、情報公開制度とセットでアカウンタビリティー(説明責任)などという概念が正義とされてしまったからいけない。お前ら税金で食ってる国民の奴隷だろう、奴隷ならご主人様たる国民の靴を舐めろ、とまでは言わないけれども、とにかく国民の金でやってる仕事は原則として説明を求められたら何人でも理解できるように説明せよ、と。そういうことになった。これにより、お前らみたいな低学歴に説明したって俺たちの高度な仕事なんてわかるわけないもんねー、とこれまで高みからシモジモを見下していた官僚サマサマが、どんなに高度かつ複雑な仕事だとしても説明を求められたらちゃんと手取り足取り説明しなきゃいけない、ってことになった。中卒にも理解できるようにね。結果、税金やらポストの私物化の仕組みも情報の独占の仕組みも崩れた。そしてこのように彼らにとって窮屈な時代となった今、彼らにとっておいしいことは残されているだろうか? 税金で飲み食いもできないし、天下りポストも減ったし、かといって仕事量が膨大なのは相変わらず。中央省庁の年度末の予算編成作業なんてまるで戦争状態。毎日毎日徹夜の連続なのに残業代もロクにつかない。しかも民間外資系に行った東大の同級生は俺らの2倍は給料もらいやがって畜生めが、なんで俺らはこんなに運が悪いんだファック、市民ども(プロフェッショナルなほうの)があのとき騒いだりしなければ俺らの天下は未来永劫揺ぎ無かったはずなのにサノバビッチ、あいつらが勝手なことをやっておかげでサックマイアス――
 などと吠え面かきながら自らの不運を慰める官僚もいるかもしれないが、彼らのこうした悲劇は現代の社会では必然だったように思われる。
 いまの日本、タテマエでは資本主義であり、市場主義であり、民主主義というルールが信仰されている(タテマエではね)。そんな中、例にあげた「行政」の場合、知っている者(官僚)と知らない者(その他大勢の市民)との格差、つまり情報の非対称性が存在することによって官僚の特権が生まれていた。そして、資本とか市場とかデモクラシーというのは、そうした非対称を自動的に平らにしてしまうような性質がある。情報を独占してる奴が得ばっかりしてるなら、損ばかりしてる奴は独占者の非公正ぶりをあげつらい、格差をフラットにせよと主張するだろう。社会の参加者は対等な立場で競争し、取引する――というルールがタテマエにある以上、その主張は尊重されなければならない。タテマエではね。
 さらに官僚たちにとって不幸なことに、行政情報とは実は、そんなに小難しいものでも奇奇怪怪なものでも何でもなかったのだった。非対称を生みだしていい思いをしようとする故意の操作により、必要以上に小難しくなっている制度やら条文やらは確かに少なからず存在するけれども、根っこにあるものはとりあえずは誰にでも理解できるものだ。そりゃそうだ。基本的に行政とは、市民サービスという世俗的な物事に収斂されるだけのものに過ぎない。
 さて、行政とか官僚のたとえ話を続けてきたが、これと同様に、この世の大抵の世界は昔に比べてかなりクッキリと透明化してきた。市場の力によって平準化され、奇奇怪怪な不合理やらコストやら非対称性やらがなかなか見当たらなくなってきた。専門的な分野では非対称がまだまだ生まれやすいけれども、それでも第三者がチェックするような仕組みも完備されつつある。たとえば不動産や建設業界において、業者は長らく専門的な情報を独占し、ユーザーに対して独占的な立場に君臨してきた。しかし、今ではユーザーが雇った成果報酬で動く第三者たる審査機関を代理人として立てることにより、不当に高い値段をふっかけたり手抜き工事したりといったことを防ぐ、などの仕組みもある。そういうのに加えて、というかそもそも、インターネットの力は大きい。かつては家を買うにしろ、車を買うにしろ、医者にかかるにしろ、何をやるにも売る側の人間と買う側の人間の知識量はかけ離れていた。そこで買う側は売る側に体よく騙されて泣き寝入りしたり、なんてことも少なくなかった。しかし、今まさにネットで口コミやら比較サイトやらが隆盛したおかげで、そうした情報格差は圧倒的に狭まり、ユーザーが不利益を蒙るケースは減りつつあるのだ。西洋の思想とか技術ってすごい! まあ、サブプライムだのリーマンショックだのってのが起きてしまったのも情報の非対称からなんだけれど、あの辺もまあ西洋の優れた経済学者がそのうち何とかするかもしれないよね?(この辺はちょっと弱気)。
 いずれにせよ、市場とインターネットが社会の隅々まで席巻した現代。世の中は非常にクッキリ、高級浄水器でろ過したようにキレイな世界になった、あはははは、これこそユートピア、などと市民たち(プロフェッショナルなほうの)は高笑いするかもしれない。まだまだ世界に残る非対称を根絶やしにせよ、デリバティブだのCDSだのも透明化とか専門化の監視でまあ何とかなる、などとガナリ立てるかもしれない。いや、しかし完全なフラットな社会なぞ実現できるわけがないのだ。何しろ、高度な金融工学とかの日常とは離れた世界じゃなくて、我々の身近に、どうしようもなく情報やら価値のやり取りのいびつな、奇奇怪怪な世界があるではないか。
 察しのよい読者諸君はみなまで言わなくとも理解できるだろうから、結論を急がずに、とあるエピソードを紹介しよう。私がつい先日体験したおぞましい出来事だ。あまりのおぞましさに身震いしたほどである。


   *


 帰省した折、特に興味があるわけじゃないのに暇にまかせて地元の美術館で開かれていた芸術祭「やよい祭」に出かけると、会場で案内係をしていたガク君に出会った。それは偶然の、十数年ぶりの再会だった。ガク君は書道教師で、私の高校時代の担任でもある。「ガク君」という呼び名は、私たちが高校時代に裏で呼んでいたニックネームであり、本名は高橋岳という。ガク君は50代後半の紳士で、今や市の書道連盟の役員も務めているそれなりに偉い人だった。
 おお、君か! 何の仕事してるんだい? などとガク君は満面の笑みを浮かべて私を歓迎し、軽く世間話などをした。これがぼくの作品だよ、などとガク君の達筆すぎて上手いんだかド下手なんだか判別がつかない象形文字のような書道作品の前に案内されたあたりで、私の耳に突然、中年女性のものとみられる怒声が飛び込んできて、驚いた。

 それは確かに、フザケンジャナイワヨ、と聞こえた。

 声のした方を振り返ってみたのだが、声の主はパーテションで区切られた隣の展示スペースにいるらしく、私たちの場所からは見えない。市の教育委員会後援で、作品の出品者も学校の教員が三分の一は占めている教育色の強い地方の展覧会には似つかわしくない、スキャンダラスな色合いを帯びた声だった。
 「絶対に許せないわ!今まで我慢してきたけど、今回だけは絶対に! 警察に告訴したら一体どうなるのか。そこまで事は重大なんだから!そういうことをちゃんと覚悟してるのかしらね?下の会員が何か言っても屁でもないぐらいに思ってるのかもしれないけど。でも私は本気よ。あなたちゃんと分かってるの?」
 「姫川さん荒れてるなあ」ガク君は小さくつぶやいた。

 やよい祭は書道、日本画、洋画、彫塑、写真の計5ジャンルの合同展で、毎年開催されていて、今回でもう35回目になる。市内に在住・在勤・在学であれば誰でも出品できるのだが、市内には「市書道連盟」「市書道連合会」「市美術協会」など各ジャンルごとに芸術団体がいくつかあり、それらが一つの「市文化連盟」を作り上げている。そして文化連盟所属会員の作品がやよい祭の出品作品の8割を占めていて、市長賞なり連盟会長賞なりも会員が受賞するケースが多いのだという。
 さきほどの「事件」から気を取り直して、私は会場を一通り回った。そこかしこを埋め尽くしたさまざまなジャンルの力作の数々に圧倒されるばかりだった。芸術とは、なにも有名芸術家だけのものではない。地元の小さな街にも、真面目に芸術に取り組んでいる無名の人たちが大勢いるのだ。そして、そのような「街の芸術家」は世界中に存在するのだろう。そう想像すると、胸の辺りにこみ上げるものがあった。

 地元の市では、文化連盟主催の展覧会はやよい祭も含めて年間3回開かれるから、他の近隣市などに比べても市内の各ジャンルの芸術家同士の関係が深いのだ――ということを私は、タクシーの中で先生たちから聞かされた。ガク君から夕食に誘われた私は、ガク君を含めた先生たちのオススメのお店に向かうことになったのである。
 タクシーにはガク君、田久保先生、姫川女史、そして私の四人が乗っていた。中学の美術教師をしているという田久保先生は西洋画が専門で、ガク君と一緒に今年のやよい祭の広報担当をしている。さきほどのスキャンダラスな声の主、姫川女史は地元ではそれなりに評判の高い写真教室を開いているプロカメラマン兼主婦、ということだった。目的地の日本料理店へと向かう間、かれら街の芸術家たちは私がいることなどまるで意に介さず、私にはまったくちんぷんかんぷんな内輪話を続けた。とは言っても、会話のほとんどがまだ興奮冷めやらぬ姫川女史のものであったのだが。

 「私が何もできないとでも思ってるのかしらね?舐めてるんじゃないわよ。まったく。絶対、ワッパ嵌めてやるわ。感覚が麻痺してるのかね、いままでやりたい放題じゃないの。あいつのおかげで、泣いてる人いっぱいいるんだから。めちゃくちゃやりやがって。あんな屑がよくあそこまで上り詰めたもんだわ。地獄に落としてやる、絶対に」
 田久保先生が合いの手を入れる。
 「あの人はね、何か問題があると黙っちゃう。で、全部『知らない』で通しちゃう。何も考えないでね。下手に言い訳するよりも結果的に彼にとって良かったのかもしれない。とにかく、知らない、記憶にないで通ってきた人だから」
 「そんなのが許されると思ってるの!」姫川女史はさらに興奮して沸騰した薬缶のように顔を紅潮させ、まるで田久保先生を叱り付けているかのようにまくしたてる。
 「ふざけんじゃないわよ!いくら他の人に通ったからと言っても、あたしには通らないわよ。あたしの怖さを思い知らせてやるわ。他のおとなしい人とは大間違い。これでも修羅場くぐり抜けてきたんだから。全く、ふざけんじゃねえ!」
 田久保先生のシュンとした表情がフロントガラスに映るのを私は見る。姫川女史はその後も、ワッパ嵌めてやる、豚箱ぶちこんでやる…などと穏やかならぬことを何度もブツブツと呟いていた。気まずい雰囲気を和らげようとするかのように、ガク君は私に言った。
 「今日行く店はとにかく、なんでも旨いんだよ。ぼくらのお気に入りの店でね。展覧会の期間になるとよく行くんだ。ぼくらだけじゃなくて、いろんな先生が来てる。言ってみれば、街の芸術家の溜まり場だな」

 店につくとすでに先客が数人いて、にぎやかな声が響いている。靴を脱いで座敷に上がり、「好きなのを頼んでくれ。何でもうまいから」とガク君に言われた私は牡蠣フライを頼んだ。すると、「牡蠣が好きなら、生牡蠣も旨いから頼もう」とガク君は4人前の生牡蠣を店員に注文し、他に刺身の盛り合わせ、お好み焼き、とんかつ、煮物、うなぎの蒲焼、焼きうどん、揚げ出し豆腐、ポテトサラダなどを2?3人前ずつ次々に注文した。そんなに注文して食べきれるのだろうか、と心配になるぐらいの量だ。
 ビールを飲みながら芸術家たちは私のことなどそっちのけで話を続けており、時折「西山君どう思う?」などと話を振ってくることもあるのだが、なんと答えていいのか分からずに曖昧な笑みを浮かべて、いやあ、芸術の世界っていろいろと難しいですねえ、などと当たり障りのない返答をするのが私にはやっとだった。
 三人の話に耳を傾けていると、姫川女史が何に対してそんなに憤慨していたのかが、おぼろげながら掴めてきた。
 やよい祭の会場で、どさくさにまぎれて加茂川隆奄という文化連盟のナンバー2の重鎮が姫川女史のお尻を触った。何するんですか!と姫川女史が怒鳴り上げたら彼は、いやあ、手が当たっただけだよ、と言って頭をかいた。しかし、姫川女史が彼からお尻を触られるのは、これで二回目だという。しかも隆庵のセクハラ癖は街の芸術家先生の間では有名で、これまで何度も、体を触られたり、卑猥なことを言われたりする被害の声が各芸術団体の女性会員たちから上がっていた。しかし、街の芸術界の権力者たる隆庵ににらまれれば、この街で芸術家として生きていけない、らしい……。
 こうしたことから、加茂川隆庵のセクハラの横行は続く一方、被害はすべて有耶無耶にされてきたのだという。うーむ、60代前半という隆庵氏のセクハラ。そして被害女性はすべて40、50代の女性。こんな世界もあるんだなあ、と私は人間の欲望の奥深さに素直に感心した。そう、感心したことは確かなのだが、さすがにストレートに「感心した」などと姫川女史の前では口が裂けても言えない。ぶっ殺されかねない。

 「だけど私は違うわよ。私を標的にしたのが運の尽きだったわね。今まで黙って泣き寝入りするようなおとなしい人が多かったんだろうけど、私はそんなタマじゃない。それにしても、みくびられたものだわ。よく私なんかにあんなことできたもんだ。あいつ、ちょっとボケて来たんじゃないの?」
 確かに私も加茂川隆庵なる人物の判断力は確かか心配になる。姫川女史は中身どころか外見も、めちゃくちゃ怖そうなおばちゃんじゃないか。このおばちゃんに目をつけられたらとことんいびられて、心に一生癒えない傷を負って廃人になりかねない。隆庵氏は大丈夫なのだろうか。と逆に容疑者のほうを心配してしまった。
 「まあ、あの人もね。もう長くないからさ。そろそろ潮時じゃないかね。セクハラだけじゃなくて、いろいろ問題もあるし。ほら、会計の問題とかもさ」ガク君が姫川女史をなだめる。
 「そう、それもね。私、この際だからその問題も出してやろうと思ってるのよ。今まで斉藤さんとグルになって、のらりくらり逃げてたけどね。本気で追い詰めれば、あいつ、絶対辞めなきゃいけなくなるわ。だって犯罪だもん、まあ、セクハラだって犯罪だけど。つまり、あいつは犯罪者なのにえらそうにしてるってわけ。こんなの許されると思う?」
 幾分、興奮が和らいできた姫川女史だったが、それでも口調はきつい。

 会計の問題とは、話を総合するとこんな具合だ。文化連盟に100万円ほどの使途不明金が見つかった。精査すると、ナンバー2たる加茂川隆庵と会計責任者の斉藤氏の仕業だと判った。5年ほど前から隆庵は「事務用品」といった曖昧な使途が書かれた領収書で何回も経費請求していた。金額は1枚につき1?3万円程度だったが、5年間の総額は100万円近くに上っていたのだった。一部の会員たちから、事務用品の具体的な中身は何かと問われた隆庵はこう答えた。
 「えー、作品の記録のためにデジカメとか、展覧会のチラシを印刷するためにプリンターとかね、そういう感じのものを買ったんだね。えーと、それから、パソコンソフトとかも、いろいろ連盟の運営に必要だからね。もちろんみんな、連盟のために使ってきたんだよね」
 じゃあそのデジカメやらプリンタやらパソコンソフトは一体どこにあるのか、と問い詰める者もいたが、「あー、壊れたり、古くなったりしたから、捨てたりしたね。中には古くてどうしようもないけど、捨てるのもったいないから家に持って帰ったりもしたけど。それが駄目だというなら、今度それ家から持ってくるよ」などと隆庵はのらりくらりと追及をかわしたのだった。

 「あのときはほら、あいつのことやっぱり怖がってる人多いから、この世界じゃ権力者だから」姫川女史は苦々しい表情で当時を思い出す。「それで結局、それ以上追及できずに有耶無耶になっちゃったけどね。でも、あの領収書自体、絶対カラ領収書なはずなんだ。あいつ、たぶん自分で白紙の領収書を買ってきて書いたか、あるいは仲のいい店のオヤジたちを丸め込んでカラ領収書を切ってもらったか、どうせそんなとこだろう。だいたい100万もいくなんて、デジカメ何個壊せば気が済むんだ。この話、市教委に訴えてやろうかしら。そしたら確実に、あいつの首が飛ぶわ」
 「いや、市教委には黙ってた方がいい」と田久保先生はなだめた。「隆庵さんだけの問題じゃなくなる。小さなところなら、隆庵さん以外にもいろいろ辻褄合わない点が出てくるだろうし」
 「田久保君もけっこう使ってるからねえ」とガク君はにやにやする。それを聞いて顔を硬直させた田久保先生は「みんな多かれ少なかれ、そういうことはあるでしょう」と憮然とした声で言った。

 なんという話だろう。この小さな街ではかなり大きな、スキャンダラスな問題なんじゃなかろうか、と私は思った。文化連盟には市から毎年運営費として補助金が出ているはずだ。つまり使途が不明になっているのは、彼らの私的な金ではなく、我々市民の血税の一部というわけだ。ちなみに私はまったくの第三者であり、つまり組織の外部の人間である。仮に私が正義感みたいなものを発動してこの問題を市やら地元メディアやらに垂れ込んだら、文化連盟はかなりやばい状況に陥るんじゃないか、などとちょっとだけ思ってはみたが、3人の芸術家先生たちは、まるで私が石の置物であるかのようにまったく意に介していない。
 「まあ市教委は最後の手段としても、とにかく奴をとっちめなきゃ気がすまない。さんざんやりたい放題して、罰が当たったんだわね、この私を敵に回すだなんて。そう考えると可哀想ね。あいつ、そろそろ年貢の納め時だわ」相当自分に自信を持っているらしい姫川女史は、生牡蠣にしょうゆをかけてつるりと飲み込んだ。
 「高橋センセ!」
 とつぜん、レジ前に立っている中年男性がガク君に声をかけた(忘れたかもしれないが高橋とは、ガク君の苗字だ)。くたびれた感じのグレンチェックのジャケットにノーネクタイ、口ひげをはやし、明らかに地方の芸術家の典型、といった感じの風貌だった。
 「おやおや、田久保先生に姫川先生まで。仲良しですなあ」と男は言って、酒で赤くほてった顔をにやつかせる。
 姫川女史はそっぽを向き、あからさまに不機嫌な表情をした。田久保先生は愛想笑いのようなぎこちない表情をして、「おお木村先生、おひさしぶりですねえ。これからお帰りなの?」と言った。
 「うん、建築家の先生と飲んでたんだよ。今度いっしょに面白いことしよう、って盛り上がっちゃって」隣にいたダークグレーのスーツをぴしっと着た30代ぐらいの男性がこちら側に軽く会釈を送る。
 「面白いことって?」ガク君が突っ込むと、地方の芸術家の典型たる木村氏は喜色満面の笑みを浮かべて答えた。「ある写真家が自前のスタジオを建てたいんだって。宮内さん、っていうんだけど、もしかしたら姫川さんあたりは同業だし知ってるんじゃない?そうそう!宮内不動産!あそこの社長の倅でね。まあ言ってみれば、お金持ちのボンボンだから、社長のお父さんにお金出してもらってかっこいいスタジオ作る、って言ってるらしいの。で、この建築家の糸川先生にオファーがあったらしいんだけど、注文がかなり難しいらしくて僕に相談があったのね。で、2人でコラボして作ろう、ってなったの」
 「えー木村先生、建築の知識なんてあったの?」田久保先生の言葉に小馬鹿にしたような色合いが若干混じったのを私は聞き逃さなかった。「だって木村先生、油絵以外のアートは私にはわからん、って前に言ってたじゃない」
 「うん、俺は油絵馬鹿だよ」と木村氏は笑い、続ける。「なんか、そのクライアントがね、『もっと革命的に』とか『さらにぶっちゃけた感じで』とか、そういうアバウトな注文をしてくるらしいのよ。だから糸川先生、分からなくなっちゃったんだって。糸川先生は東工大出のインテリの建築士だから、あんまり曖昧なこと言われると逆に混乱しちゃうらしいのね」
 若手建築士はうんうんとうなづいている。
 「だから僕が宮内先生の言葉を翻訳してあげようか、って提案したの。僕はそういう感性の世界で長く生きてきたから、そういう理論じゃなくて感性第一の人と波長が合うんじゃないかって思って。今度の日曜に2人で会ってくるんだ」得意げに口ひげをひくひくさせている芸術家先生。
 「木村先生ならきっと巧くいくわね。すーごく器用ですもんねえ」姫川女史の言葉にも皮肉っぽい色が見え隠れしたが、芸術家先生はさらに顔をほころばせる。褒め言葉にしか聞こえてないようだった。芸術家先生が店を出たのを確認して姫川女史は、「感性とかいって、隆庵と仲いいだけでデカイ顔すんじゃないわよ。あの馬鹿、ほんとにどうしようもいないわね」と吐き捨てた。

 それからまた、さんざん加茂川隆庵をこき下ろした姫川女史がそれに飽き始めると、田久保先生が別の噂話を始めた。
 「隆庵先生がやめたらさ、副理事長誰がなるのかな?僕としては高橋先生になってほしいけど、その可能性は低そうだよね。先生を前にして失礼かもしれないけど」
 「僕は横光理事長ににらまれてるからね」ガク君は苦笑いした。
 「うん。それは高橋派の僕らとしては残念だけど、いつかは理事長になってほしいけれど、今の体制だとちょっと出世は無理だよね。となると副理事長は誰になるのかな。戸塚先生あたりが結構有力かな、なんて僕は思うけど」
 「あー、コピーが得意技の戸塚先生ね」姫川女史が言うと3人は声を上げて笑った。「コピーマン戸塚!」
 きょとんとした表情を浮かべている私に気づいたらしく、田久保先生が説明した。
 「いやね、戸塚先生っていう絵画連盟の偉い先生がいるんだけど、いま常務理事をやってるんだけどね。その先生は風景画が専門で、写実主義でかなり巧いことは巧いんだけどね。でも、その先生、あるとき自分からぬけぬけと、こんなこと言ったんだよ。『最近は便利な世の中になったもんだねえ。コピーを使わなくても、家でパソコンとかスキャナとか使える。ぼくの作品づくりにも大いに役立ってるよ』って。他の取り巻きの先生がそれ聞いてびっくりして、『先生、そういうことはあまり公の場で言わないほうが……』なんて言ってるの。要するに写真をスキャナで拡大コピーして、それを隣に並べて真似して絵を描いてる、ってことだったらしいんだけど。それが子分の間で、というか僕らも噂では聞いてたけど、戸塚先生がそうやってズルしてるってのは暗黙の了解だったから、みんなヒヤヒヤしちゃったと。まあ、そんな人じつはいっぱいるんだろうけど、偉い先生が堂々とあんなこと言うだなんて、引け目とか全くないんだろうねえ。もう、すぐに会員の間にその噂が知れ渡っちゃって、コピーマン、だなんて別名までついちゃった」
 「偉い先生がそんなんじゃ、若い人に示しがつかないよねえ」と姫川女史は嬉しそうににやける。「でも、隆庵がやめたらやっぱり戸塚先生が副理事長になりそうよねえ。キャリアも長いし」
 「うん、キャリアは大事だ」。ガク君は力を込める。

 それからいろんな会員の噂話や悪口が飛び交い、今回のやよい祭の賞の話になった。
 「今回の市長賞の辺見さんの絵は、なかなか良かったから格好がついたね」
 「あの人も会員になって15年だから。そろそろ賞もらってもいい時期だ。個展も結構やってるしなあ」
 「辺見さんって実家がお金持ちだもんね。あの辺見建設の社長ご子息なんでしょ? 一方で乱原先生は今回、どの賞にも入らなかったわね」
 するとガク君はビールをあおりながら、「駄目駄目。乱原君はまだ日展会員でもないんだから。それに変わり者だし」と語気を強めた。
 「付き合いも悪いしな。懇親会とか親睦旅行にも来ないし、懇意にしている役員もほとんどいない。彼を推してるのは氷室さんだけだ」と田久保先生。
 姫川女史もうなずきながら、「まあ、辺見さんと違うよねえ。辺見さんは自分の師匠だけじゃなく、連盟の偉い先生たちにも中元歳暮の付け届け欠かさないらしいよ」
 「それは大事なことだ。俺だってやってたよ。若いころはしっかり気を配らなきゃ」とガク君。
 「あ、思い出したけど、連盟会長賞の麻生さんってまだ会員になって5年よね。キャリア的にはまだ賞には早いような気がしたけど」
 「あれはね、ウルトラCがあったんだよ」田久保先生は意味深な笑みを浮かべながら。「麻生さんて中山先生の弟子でしょ。ほら、重田先生の3番だか4番弟子で、ちょっと頭が薄くてすだれみたいな髪の人。で、あの中山先生の猛烈なプッシュがあったらしいよ。中山先生って奥さんと上手くいってなくて、そこで麻生さんと出来ちゃったっていう噂」
 「え、中山って、あのバーコードゴリラでしょ!?絶対無理だわ」姫川女史が言うと、三人は爆笑する。
 「いくら頭髪が薄くても、人間じゃなくても、師弟関係ってのはそれだけ深い絆で結ばれてるってことだよ」ガク君は冗談めかして言う。
 「でも中山先生だって、横光理事長とはそれほど懇意じゃないよね」
 「そこは、麻生さんの強かなとこなのだが、どうやら横光先生に色目使ったらしいんだよね。懇親会のときに横光先生の隣に座って、腕なんか組んじゃったりして。ほら、あの人、やけに色っぽいところがあるじゃない」
 「うまくやったもんだわね。隆庵とも出来ちゃってるかもね」姫川女史は加茂川隆庵を思い出して不快な色が顔に混じる。
 私はぼんやりと、《こんな芸術家先生たちの織り成す光景が、世界中いたるところで繰り広げられているのかもしれない》、などと考えながら、三人の内輪話を聞いていた。芸術とは何か。そのような難しい問いへの回答に、ちょっとだけ近づいたような気がしたが、それは錯覚かもしれない。錯覚じゃないかもしれない。
 「あ、まだこんなにいっぱいあるよ。どんどん食べなよ。若いんだから!」田久保先生は私に牡蠣フライを薦めた。私は笑顔で箸をつけるが、皿の上で転がすだけにとどめた。本当にお腹がいっぱいだった。食欲的にも、彼らのお話にも。

 ビールが焼酎に変わり、日本酒に変わり、それからも話は延々と1時間ほど続き、3人がすっかり満足の笑みを浮かべ、「とにかく隆庵にワッパを嵌めてやる」との姫川女史の決意を再確認したところでお開きとなった。
 「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
 私が丁重にお礼をいうと、「いやいや、どういたしまして。これからもよろしく」とガク君は言った。財布を出したが、いやいやと制止され、恩師の顔を立てる意味でも素直に奢られた。しかし、会計を済ましているガク君を店の外で待っているとき、ガク君のこんな声が私の耳に飛び込んできたのだった。
 「あ、領収書ちょうだいね。文化連盟様で。『やよい祭懇談会費』でいいから」

 先生たちと同様、私のお腹も血税で満たされてしまった瞬間だった。



   *


 どんなに市場が発達しても、ネットが発達しても、民主化されても、売り手と買い手の間に非対称が生じてしまう世界は存在する。なにが良いのか、なにが悪いのか、絶対的な指標がない世界。そしてそのような世界では、これでもかというぐらいに不正がはびこることになるだろう。それは必然だと私は断言できる。今まさに沸騰中の中東やら北アフリカやらの独裁政権をみよ。あれは民主主義的なものが働いてないから、ああいうことになってるんだろう。けれども、それでもやっぱり、民主化の波が押し寄せているんだぞと。騒動に乗じて資本主義化の波も広がるかもしれないし。あと、あれのきっかけもインターネットだったしね。西洋の思想とか技術って本当にすごい、というかこわい。まさに肉食系。その一方で、公正な市場やら民主主義を標榜しているはずの日本ですら、内部をきめ細かく観察してみれば、なんだかワケ判らん世界もあるのもすごい。地球をも飲み込もうとしているすごかったりこわいのが届かない場所がじつは身近にあるのだってのがなんかすごい。
 そういう世界こそ、虫けらみたいな俺たちにもチャンスがあるんじゃないかと私は思うのだ。俺たちでも官僚様になりうるんじゃないか、と。とりあえず、今の時代、クリアでフラットな世界に可能性は微塵も無い。クリアでフラットな世界で公正な競争をしたら、奴らの基準で言う「強者」が勝つに決まっているじゃないか。ここで言う「奴ら」とは何を指すのか、懸命な読者はわかっているだろう? そうだ、「奴ら」だ。そして「われわれ」、つまり弱者を自認する者たちは、ゆるゆるで、もやもやで、でこぼこで、霧のかかった、ファジーな世界にこそ、あえて足を踏み出すべきではなかろうか。クリアじゃないと怖い? 一寸先は闇? 心細い? 何をいってるんだ、いいんだよそれで。かまやしねえ、やっちまえ。ワケわからんままに世界を牛耳ってしまえ。



※文中の登場人物、団体名は仮名。

村上春樹の過大評価を考える/番田

村上春樹氏の小説の意味は全然わからない。そしてなぜ、こんなに万人受けするのか、よくわからなかった。私は彼の小説は読んだことがあるのだが、私に対して何の感銘も与えられなかったし、多くの人のように、手放しで賞賛するということはできなかった。彼の小説は、何かを訴えたいのだということについて、私たちに対しては明確な風景を与えることなど不可能で、雑誌の四コママンガのように記憶の隅から消されていく。彼の小説は、登場人物は少ないし、風景が明快に描き出されるということも少ない。読者としては何をどのようにして読んだらいいのかを困惑するばかりである。それは何故なのか。寝言を言っているように読むこともできる。心理描写なのか?風景描写なのか?本当にはっきりしない。わたしはそれに、本当に長い間彼の小説を読んではいない。長編を書くようになってから文体が間延びするようになってしまった。また、私は売れている本などあまり好きではない。


要は彼の書きだすものは芸能人の描くエッセイのようなものなのだ。そうなのではないというのなら、あんなにたくさんの人の賞賛を得ることなどできないだろう。彼はアメリカ人作家を翻訳してみたり、文の中にかつて大量生産国家だった頃の商品をモチーフとして引き合いに出してみるところもよくわからない。村上春樹の書いた作品のルーツは、どちらかというともっと日本的なものと似ているのだと思うのだが、自国の文化を否定してまで他国のものを引き合いに出すというのは非国民のすることとと似ているのである。私はその点においても、彼に対して賛同できない。


話しは変わるが、私がちょうど三年ほど前アメリカに留学していた頃、アメリカはああいった小説や文学好きがいたわけで、彼らに村上春樹の名前をなんとなく出してみても、これに対しては知っていますという人はひとりも見あたらなかった。村上の知名度は、世界ではあまりないのだ。彼らにとっては自国やイギリス人作家に対する敬愛の方がより膨大であった。そんなものなのである。日本という閉塞された場所を出ると、誰一人世界の片隅の島国に関心を寄せている人間など存在しないということなのである。しかも、ああいったアメリカやイギリスの作家に見られるような消費文化としての普遍性に対しては、恐怖感を感じるということを私は否定することはできない。


例えば誰もが知っている作家であろう、ホラー小説の書き手などはアメリカには多く存在するであろう。それらに感化されたところで、人間として道徳心につなげられると言うことは、本当に困難なところである。これらはわかりやすいが、現代的なモチーフが多く使われているうえ、若者には、取っつきやすい文体だともいえるのかもしれない。しかも、これらは文学的な哲学性をはらんでいるのかといわれれば、否定することもできないという二重のクオリティがある。


このようなアメリカの小説と、村上の小説を比較してみると、そこに大きな違いが存在するのであり、彼の小説がアメリカ文学界に与えられる影響はあるのかと問われたところで、無いのだとしか言いようはない。村上作品がアメリカ文学から得られる影響は、多大であるとしても、その逆はないのだということである。それは、彼が紛れもなく日本人の作家であるという理由であるからに他ならない。彼がアメリカ人なのだとしても、彼は日本人作家である。このことは彼自身の作品自体が明快に主張している。

朗読についていくつか/rabbitfighter

声と言葉のパフォーマンス、PPWを主催している。(PPWについては僕のフォーラムのHPを参照してください)
また、同じ場所で服部剛さんが主宰しているぽえとりー劇場や、別の場所で催される詩の朗読会で、月平均40人くらいの詩人の、100篇近い詩の朗読を聴いている。

たぶん今日本で一番詩の朗読を聴いているのは自分なんじゃないかと思っているくらいの数の朗読を聴いている。

以上が前置き。

あくまで自分の想像においてだが、詩における朗読の歴史は、詩それ自体の歴史と等しい。朗読、あるいは語りかけるという行為が、初めに在った。文字の発明を待つ間、詩の表現方法は語る、あるいは唄う、のいずれかであった。
文字の発生以降も長い間朗読は第一の表現方法であり続けた。以降、印刷、流通、デジタルへの変換、インターネットの普及などを経て、詩は語られることが無くなった。
語りかけるという、当たり前の技術は、もはや古代の遺産として、ピラミッドの建築方法と同じように、忘れ去られ、失われてしまった。

それでは僕が毎月聴いている100篇もの詩は、何なんだろう。それらは語られているのではなく、ただ読まれているものだ。その朗読に語りかけてくる力はなく、言葉は口元からこぼれおち、鼓膜を刺激しはしても、心を響かせてはくれない。また、複雑に記号化された現代詩は、もはや声の助けを必要としなくなった。

語りかける力を失った朗読は、ずっと昔に行く道を分かれた兄弟たちの力を借りようとする。演劇や音楽の力を借りて、一応の成功を収めたかのように見えるそれらはしかし、安易であるがゆえに、見え透いてしまう。鉄筋コンクリート造の城のような佇まいだ。
ただし、そこから生まれてくるかもしれない新しいものの可能性を否定しない。演劇や詩小説を栄養にして育った映画のような新しい芸術が生まれる可能性を、むしろ想像したい。

それでは朗読は、古代の遺跡として砂漠の中に立ちすくんでいるべきなのか。
僕はそうは思わない。今でもまだ、99篇の力無い朗読の中に、一遍の力を持った言葉を耳にすることがあるからだ。そのような朗読に響いた心を、僕は知っているからだ。なにもミリオンセラーのヒットソングと肩を並べたいわけじゃない。ただ一遍の言葉の塊に、心が震える。その場にいる人にしか共有できないようなささやかな、だけど尊い感覚。そんな言葉の響きに、何度でも、何度でも心を響かせたい。そんなことを願っている。
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