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ぼくらはみんな詩んでいる!――草野心平「冬眠」を音読するために/香瀬

※ 本文章は2013年1月15日から始まりますHHM(ひひょうまつり)の作例としてcaseがでっちあげたものです。引用や作品論など「HHM要項(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=263799)」をお読みいただいただけでは把握し辛かったことも多かったことと思いますので書いてみました。ご笑覧ください。HHM参加をお考えの方は、お読みになって「あ、こんなテキトーでもいいんや!」って思っていただき、是非とも筆を執っていただければ幸甚です。


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【HHM参加作品】ぼくらはみんな詩んでいる!――草野心平「冬眠」を音読するために


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問題:次の詩を音読せよ。ただし単なる解釈による説明は認めない。




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・小説に限らずあらゆるメディアから物語を読み取ることが出来る。
・多くの人は物語を読み取ることが鑑賞だと思っている。
・物語以外の要素を読み解くにはどうすればいいか。

以上3点の思い付きを解消するために、「詩を読むという行為」ならびに「物語を読むという行為」を対置しながら太宰治『走れメロス』と芥川龍之介『羅生門』について考えてみたい。ちなみにこの2作品は多くの国語の教科書に載っており、中学と高校で触れるであろう「日本文学」を代表するものでありながら、短編である点を採用基準とした。なお、2作品とも青空文庫を参照している。

太宰治『走れメロス』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1567_14913.html
芥川龍之介『羅生門』(http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html


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・ 「●」を音読するために(1)

「冬眠」
『蛙』
草野心平
<蛙の詩人>
「春殖」「秋の夜の会話」といった季節をタイトルに含める他作品
視覚詩について

草野「冬眠」(●)を読むために、上述したパラテキストを参照する。
会話も然り。
往復言語だけでなく文脈や状況を鑑みて会話は行われている。

ドーナツの穴を囲うかのようにパラテキストを配置して、読み解き難いテキスト――「穴」の形を浮彫りにする。
「穴」?

○ではなくて、●なのはなぜだろうか。
当時の出版環境から彩色した○を載せるのは難しかったかもしれないが。
白丸ではなくて黒丸なのはなぜだろうか。

(蛙が冬眠するとき、蛙は土中の穴に眠る)

白い眠り/黒い眠り


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・ 色彩に注目した読み解き――『メロス』

 色彩を読むとはどういうことでしょうか。色彩心理学?(わたしは色弱なんだけど)。色の意味は文化によって異なります。(ブルー・フィルムとピンク・チラシを想起せよ)。ただし、黒や白のようなモノクロなものと、赤のような原初的な色はカラーイメージの違いがそこまで大きくない、という見方もあるようです。
 
 ――赤。

 小説「走れメロス」を首尾一貫しているカラーイメージとして赤が用いられていることは広く知られています。「メロスは激怒した。」という有名な一文で始まり、「勇者は、ひどく赤面した。」という一文で終わること。主人公であるメロスの表情が真っ赤であることを強調するだけでなく、メロスの象徴する信実が彼の体内を流れる血液のイメージと重ねられるように設定され、友のために走り続けるメロスの熱情をも読者に想像させます。

 このメロスと対置されるように描かれるのが暴君ディオニス。彼は人を信じることが出来ず、また彼の顔面には深い皺が刻まれ蒼白であったと書かれています。「走れメロス」は、信実を象徴するメロスの熱情的な走りと、親友セリヌンティウスとの友情を果たす姿に、ディオニスが強く心を打たれ人を信じる心を取り戻す、というのが大まかな筋ではあり、顔面蒼白だったディオニスが「顔をあからめながら」最後にメロスとセリヌンティウスの抱擁に近づいていくことからも彼の変心がカラーイメージとして明示されていることが読み取れます。

 ディオニスのように対置されるもう一人の人物が親友セリヌンティウスであり、彼はメロスと鏡像的な関係だともいえます。村の牧人と市の石工、相手を待たせる者と相手を待つ者。わたしは牽強付会ながら、大理石を扱うセリヌンティウスに白のイメージを引き出し、メロスとの色彩的な対照性も見たい気持ちがありますが、それを差し引いても彼らが住んでいる場所も職業も作中の立場も正反対でありながら、竹馬の友であり言葉を交わすことなく人質にする/される関係であることから両者の対照性を見られます。

 本作は真っ赤に塗りつぶされる作品です。蒼白だった暴君も、一度だけメロスを疑った親友も、そしてゼウスを思わせる何か大きな力に引きずられるように不吉さと狂気をまとった黒い風のようなメロスも、最後の場面で真っ赤に染まります。処刑までの期限である日没は、一日のうちでもっとも世界を赤く染める時間帯だからです。

 さて、日本語の「色」にはその人の様子や存在の意味もあります。赤という強烈な「色」で男三人が友情を確認して幕を下ろす本作ですが、本作では「色」を奪われた人物が二名います。メロスの妹と最後にメロスにマントを手渡す少女です。妹は結婚式を早められたことに「頬をあからめ」ますが、その感情をメロスに「うれしい」と決められ、少女の「緋のマント」は、その意図をセリヌンティウスに「口惜しい」と決められます。このような女性の発言を奪い男だけで友情という名の閉鎖的な連帯感――ホモソーシャルが「メロス」から見出せます。こうした視点に立ったとき、「友情」とはなんだろうかと思います。もしかしたら太宰にとって、「メロス」に描かれた「友情」ものは「真っ赤な嘘」だったのかもしれない、などと想像するのも楽しいです。


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・ 「●」を音読するために(2)

「春」「殖」
「秋」「夜」「会話」
「冬」「眠」

季節を示す言葉を持つタイトルがどういう作りになっているか。
どういう変遷を辿ってきたのか。

生殖――「もうすぐ土の中だね/土の中はいやだね」――眠

「るるるるるるる[…]」――「死にたくはないね」――●

「春殖」は3つの顔を持つ。
・蛙の春に対する喜びを生殖の悦びを表す鳴き声
・「る」が左向きに座っている蛙の表象
・「るるるるるるるるるるるるるる」と連なる蛙の卵の視覚詩

「る」の文字の中にある丸=卵――誕生の色は、白い。


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・ 二項対立に注目した読み解き――『羅生門』

 よく知られた「羅生門」の要約がこちら。

 「下人が盗人になる物語」
 「下人が勇気を得る物語」

 はい、ただのへたれで何者でもなかった主人公「下人」クンが、生き抜くために盗人になる、あるいは、荒廃した現実に立ち向かう勇気を得る。さて、――。

 盗人とは悪ですし、勇気はどちらかというとポジティブなイメージです。ネガティブな悪行を働く原動力が勇気というのはいかがなものか。そして最後「下人の行方は、誰も知らない。」で本作は幕を閉じるわけですが、彼は盗人として生き抜いたのか、それとも改心して餓死を選んだのか。本作に仕組まれた二項対立を整理していきながら見ていきましょう。本作は「A/B」で二項対立を図示した際の「/」に偏執した作品として読み解くことができます。

 一つ目は場所・時間帯についてです。場所は「羅生門」、時間帯は「暮れ方」、「蟋蟀(きりぎりす)」が啼きそろそろ肌寒くなる季節は「晩秋」といったところでしょうか。洛中と洛外の、昼と夜の、夏と冬の、それぞれの境界線上を揃えて舞台としている「羅生門」は、「=境界線上で佇(たたず)む」の作品として構成されていると言えます。

 二つ目は下人の人物造形について。「面皰(にきび)」があることから「思春期」、盗人になるか飢え死にするか、善か悪か「迷い」の最中にいます。また「聖柄の太刀」とは寺社仏閣に奉納される刀のことであり、一介の下人だった男が持っていることは冷静に考えると不自然です(下人は既に盗みを働いたことが、少なくとも1度はあった)。このことから、先ほどの「迷い」は「どちらを選ぶか」という仮面を被った「悪人(盗人)として生き抜けなかった自身への自問自答」のように見ることができます。

 そして三つ目は「作者」を騙る語り手についてです。わたしたちが通常、読書の最中に頭に浮かべる「この小説を書いた人」というのは、読んだ人それぞれの頭の中に発生する「作者」という要素に過ぎない、という考え方があります。そして、実際にわたしたちが目で追っている字面を物語っているのを「語り手」と読みます。このことより、本作中の「作者」は語り手のことであり、作り話であることを意識しないで物語の世界に入り込んでいた読者は、「作者」を騙る語り手が顔を出すことによって、これが作り話であるという現実をつきつけられるわけです。ここでは、小説という構造が読者に対して仕掛けた「物語世界と現実世界の狭間」を見て取ることができます。

 このように、「羅生門」という小説は、様々な二択の選択肢の間を縫うような設定を重ねて作られたものと言えます。

 以前知人と「下人の行方は?」という話題を話していたとき、「羅生門に戻ってくる」と返答されたことがありました。下人には自分の意思がないのだろうか。

 ただ、下人とは平安期の貴族の奴隷のことですが、暇を出された男が終始「下人」と呼ばれ続けたことは、選択肢を前にしても人間は何も選ぶことができない、選ばされているに過ぎない、人間とは運命の奴隷に過ぎない、という読み方は深読みしすぎかもしれません。


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・ 「●」を音読するために(3)


「冬眠」をそのまま素直に受け取れば、鼾のような擬音を用いることができるでしょう。
様々なパラテキストを見渡した上で、「●」を(「(餓)死」を?)どのように音読できるだろうか。

ある者は身振り・手振り・憤怒や悲哀とも名指せそうな変容し続ける表情を用いて「鼾のような擬音」を咽喉の奥から発していた。またある者は春を・明日を・来世を思わせるように「翌朝のデートの予定」を軽やかにうたっていた。

あなたはこの黒丸に、何を想像する?


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・ 「物語を読む」、「物語以外を読む」

けっきょくよくわからんのだけど、いまのところ物語ってのを次のようなものと考えてる、わたしはね。

・ある作品から要約として抽出できるもの
・要約に必要なもの:登場人物、場面、事件
・登場人物、場面、事件を配列し何かしらの変化がある

例)桃太郎
起:爺と婆のもとに桃から男の子(桃太郎)が生まれる
承:鬼が島へ向かう道中で桃太郎が黍団子を条件に犬・猿・雉を家来にする
転:鬼が島で鬼をふるぼっこにする
結:爺と婆のもとに鬼から奪った財宝をもって帰り3人で幸せに暮らす

転を境に桃太郎たのいる場所が変化する、場所の変化の前後でゴクツブシだった桃太郎が一人前に成長する(個人の変化)、爺婆らのもとに財宝が転がり込む(経済的変化)の3つの変化が確認できる。昔話はこのような要約でほぼ全体像であり、「物語」を確認できる。

では、「物語以外」とはなんだろう。たとえば、爺と婆はなぜ山や川しかないところで2人きりで暮らすことになったのか。たかだか黍団子で家来となった犬・猿・雉の心中は何か。鬼は無条件で悪役だったが具体的な悪行は何か、財宝を手に入れた方法は何か。どうやって鬼を倒したのか。財宝の分配は3匹の家来にはなかったのか。

このような「物語以外」への突っ込み的な視線が、要約の過程で捨象した何かといってみたい。こうした「想像力の余地」を足場にして笑いを創造しているのがbokete.jpの名作と言える。というわけで、これから野暮なことをします。

http://bokete.jp/boke/1776135

描かれなかった戦闘描写と犬が戦闘のための家来にもかかわらず子犬(家来の年齢については描かれていない)が、「余地」。


http://bokete.jp/boke/1997546

先ほどの犬の年齢と同様、家来の性別についても描かれていない。また、黍団子以外の条件が「なかった」とも描かれていない。

http://bokete.jp/boke/1792084

桃太郎へ惚れるということを戦闘への参加と書き換えた前のとは逆に、キビダンゴだけで戦闘に参加してしまった後悔を描く。当然、家来の胸中は「余地」。


http://bokete.jp/boke/2142404

これは赤ん坊の胸中が「余地」であることを利用したもの。類似でかぐや姫の首が切られるブラックジョークなんかも小学生なんかが好むよね。どちらも「中に人がいるなんて普通思わないジャン?」って当たり前の発想が共有されている。

この共有がネタそれ自体にも鑑賞者間で行われると笑いの共有にもなる。「桃太郎」という有名な昔話のパロディであるから、これらのボケは笑いとなっている。そして、パロディで描かれた作品自体もまた共有されていく。つまり、--。




http://bokete.jp/boke/2207206(削除されています)
http://matome.naver.jp/odai/2134616231098160501/2135100265771849003

もし仮に「犬が逝った。」であったら、「犬猿の仲」のような言葉を思い出すかもしれないけれど、「犬も逝った。」単体では笑いには絶対になりえない。

桃太郎侍が「越後製菓!」と叫ぶことで面白く感じることに近いものをわたしは感じる。あるネタを共有している人らで笑えるネタそれ自体が共有されることで生まれるネタの存在。

「笑い」とは緊張と緩和だという人がいる。でも、わたしたちは何かを「笑う」とき、何に緊張し、それがなぜ、どのように緩和されたのか意識していない。元ネタ=固定観念といった緊張が、「余地」から派生した想像力に緩和されている様は、創造がまさに固定観念を破壊しているとも言える。


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・ 詩を読むということ――ぼくらはみんな詩んでいる!(おわりにかえて)

お笑いを面白がれること。
ドラマである俳優にのみ注視できること。
ある作り手の遍歴をもとに作品を鑑賞できること。

言葉遊びができること。
同じ作品であっても演者の違いで楽しみをそれぞれ見出せること。
気心知れたアイツと酒の席でグデグデに酔っ払い、ツーカーなやりとりで延々とクダを巻くも何の生産性もない美しくも怠慢な爛れた雰囲気の素晴らしき魅力がわかること。

これらは全部わたしたちが普段の生活で特段意識せずに行っていることである。これらのどれかひとつでもいい、すこしでもいい。「なんで、そういうことができるのか」「どうして、こういことができるのか」「楽しめるってなんだろう」「面白いってこういうことではないか」。そんなことをみんながちょっとずつ喋ってみたらいい。そのひとつひとつが、「詩を読む」ということだって、根拠もなくいってみたりなんかして。

意識してないだけで、わたしたちは詩を読むときのプロセスをどっかで行っている――「ぼくらはみんな詩んでいる!」。だからそれを、意識してみたいんだけど、それってまるで、音読できない作品を如何にして音読するかということを考えることに似ているかもしれない。


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・ 参考

青空文庫:(http://www.aozora.gr.jp/
ボケて(bokete):(http://bokete.jp/
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