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「yo-yo「紙のおじいちゃん」について」/広田修

[梗概]
「yo-yoの作品の魅力を生み出している秩序付けられた混沌について書いた文章。」

http://yo-yo.blogzine.jp/poem/files/01.pdf

 詩のテクストと小説のテクストの大きな違いは、大雑把にいうと、詩のテクストが言語そのものの在り方に注意を向けるのに対し、小説のテクストは言語によって生み出される世界の新たな連続性に注意を向けることである。小説は言語によって整合する世界を作り出すのが得意だ。だが、詩の作り出す世界というものは、「世界」と呼べないほど断片的だったり不整合だったりする。だが、だからこそ詩のテクストは言語そのものの構造や形式を弄ぶことができて、読者を動かす言語そのものの可能性を十分発揮できる。
 詩のテクストは祝祭のテクストである。そこでは、人間は何か現実的な目的のために消費を遅らせることがない。人間は生きていくために様々な破壊をしなければならない。様々な価値を壊さなければならない。それは端的には物を食べたりすることであるが、それを目的として、人間はまず労働しなければならないのである。このような、目的に向けて行動を一義的に決定し、経路を逸脱しないようにして価値を生産するために労働すること。現実の人間の行動はそのようにして説明できる。
 ところが、詩のテキストは多義的である。それは、解釈の一義的決定を拒絶し、そうあることによって、その場での様々な仕方での消費を生み出すのである。多義的であるから、何か特定の目的を志向するわけでもないので、読者はそれを指定された目的に沿って使用する必要もなく、好きなように解釈し、好きなようにしてその場で消費してもよいのである。つまり、読者は目的を一義的に設定して労働することなく、多義的な目的のただなかへ自らを投げ込み、その可能性の緩い刺激を楽しむ事ができるのである。
 だから、詩のテキストでは目的連鎖からの逸脱が可能である。詩は言語の可能性を用いて様々に脱臼させられ、論理や物語や目的連鎖の継ぎ目がことごとく破壊され、そこには混沌や始原的なものが出現する。現実を規律している様々な規範から逸脱することは、読者の隠された願望でもあり、詩は読者の願望充足の空間としても機能する。読者は、詩が暴虐の限りを尽くして規範を逸脱するのを見守ることにより、心の浄化を感じるのである。


紙のおじいちゃん


おまえに綺麗な紙のきものを着せたったら
紙人形のように可愛いやろなあ
そんなこと言うてはったおじいちゃん
いつのまにか
紙のおじいちゃんになってしもて

あれは風のつよい日やった
中学生やった私は下校の途中で
なんや空の方からおじいちゃんの声がしやって
凧のようなもんが街路樹に引っかかっとってん
ひらひら ひらひら
そんなとこでなにしてはんの
おじいちゃんはすっかり紙になってしもうてた

こんなに平べたになりはって
こんなにわやくちゃになりはって
私のラケットよりも軽いやないの
かなしいて かなしいて
私の涙でおじいちゃんが溶けてしまいそうやった

背筋がまっすぐ伸びていたおじいちゃん
朝は5時には起きだして
公園で仲間とおしゃべりするのが日課やった
盗難バイクを解体するヤンキーと喧嘩したり
ランドセルの小学生をからこうてみたり
啓蟄や夏越や爽やか赤蜻蛉やゆうて
昆虫のように季語を追いかけはってた
おじいちゃん

それやのに
ただの白い紙になってしもて
もう五文字も出てきいへん
七文字も出てきいへん
言葉をどこへ置いてきはったん

おばあちゃんがなんもかも
持っていってしもたんやろか
おばあちゃんも紙のようになって死にやった
少しずつ少しずつ紙にうずもれて
紙くずみたいになってしもて
おじいちゃんが必死になってさがしたんやけど
終いにはなんも残らへんかった

きりがないねん きりがないねん
おじいちゃんは呟きながら紙をちぎってはった
生きるんかて死ぬんかて きりがないねん
おじいちゃんの体が
あれから急に軽うなりやった

おじいちゃんの紙のきもの
よれよれになった袖やすそを
ときどき鋏で切ったげるとしゃんとなって
わずかだけ昔のおじいちゃんに戻るみたいやった
そやけど すこしだけ小っこうなって
ますます小っこうなって

おじいちゃんは紙の眠り
おじいちゃんは紙の目覚め
すっかり紙にくるまれてしまはって
おじいちゃんのかなしみ
もう紙のいのち

おじいちゃん
風の日はそとに出たらあかんえ
雨の日もそとに出たらあかんえ

あした私は紙人形になって
この家を出てゆくけれど



 この作品では、「おじいちゃん」が紙になってしまっている。だが、この作品で一番重要なのは、そのような変身による暴力よりも、その変身の衝撃を強める作用をしている時間の方である。ここで、「時間」とは、空間化され均一化された自然科学的な時間ではなく、誰かにとって様々な感情や態度によって受容された出来事の集積である。1分の大きな出来事は1時間の小さな出来事よりも人間にとっては深刻で意味のあるものであるかもしれない。ここでは、1分・1時間という空間化の指標を取り払い、受け手にとっての意味合いが強調された出来事の積み重ねという意味で時間というものをとらえることにしよう。
「おまえに綺麗な紙のきものを着せたったら/紙人形のように可愛いやろなあ/そんなこと言うてはったおじいちゃん」「背筋がまっすぐ伸びていたおじいちゃん/朝は五時には起きだして/公園で仲間とおしゃべりするのが日課やった/盗難バイクを解体するヤンキーと喧嘩したり/ランドセルの小学生をからこうてみたり/啓蟄や夏越や爽やか赤蜻蛉やゆうて/昆虫のように季語を追いかけはってた/おじいちゃん」このように、紙でなかった頃の「おじいちゃん」が受け手にとって大きな時間の中でとらえられる。紙でなかった頃の「おじいちゃん」がとても大事な存在であったことが、これらの時間の集積によって読み手にも伝わる。そこでもって、「いつのまにか/紙のおじいちゃんになってしもて」が大きな落差とドラマを生み出すのである。人間が紙になるのは世界が許容しないが、そのような世界の規範を破ると同時に、人間が紙になるということの多様な解釈可能性、つまり多義性を生み出しているのだ。このような多義性の混沌の中に読者を派手に投げ入れるために、yo-yoは、紙でなかった頃の「おじいちゃん」を、厚みのある時間を用いて記述するのである。紙でなかった頃の「おじいちゃん」に、語り手は並々ならぬ愛情を注いでいる。その愛情が、紙でなかった頃の時間の厚みを増すのである。
 さらに、紙になってしまった「おじいちゃん」も同様に厚みのある時間を用いて記述されている。「あれは風のつよい日やった/中学生やった私は下校の途中で/なんや空の方からおじいちゃんの声がしやって凧のようなもんが街路樹に引っかかっとってん/ひらひら ひらひら/そんなとこでなにしてはんの/おじいちゃんはすっかり紙になってしもうてた/こんなに平べたになりはって/こんなにわやくちゃになりはって/私のラケットよりも軽いやないの/かなしいて かなしいて」などなど。これもまた、かなしさなどの感情、「おじいちゃん」へ声をかけることなどを通じて、語り手にとって紙になった「おじいちゃん」のたどる時間の厚みを読み手に知らすことに成功している。
 確かに人間が紙になるというのは一つの変身譚である。だが、その変身譚をより多義的に、よりドラマチックに、より読者を惑乱するように作りこむためには、時間の力を借りなければならない。それは、人間が紙になる前と紙になる後の両方における記述の厚みであり、その厚みを生み出すのは単純な記述の量だけではなく、その記述に込められた思いでもある。yo-yoがこの作品において巧みな点は、詩における祝祭を、単なる混沌におとしめることを避け、適切な筋道を立てその筋道を厚く叙述しながら、変身譚という暴力をきわめて劇的に作り上げている点である。徹頭徹尾意味不明な規範逸脱だらけだったらこのような鋭利な劇は生じない。yo-yoは、規範を破るのを、人間が紙になる一点に絞り、その前後を厚く記述した。そのことにより、変身の劇性は強まり、それ以外の秩序と対比させられた変身の混沌と多義性が一気に膨れ上がるのである。
 ところで、最終部分の「あした私は紙人形になって/この家を出てゆくけれど」ここが気になる。「私」もまた紙に変身するのだと文字通り受け取っておこう。だが、「おじいちゃん」が紙になるのはとても悲しい負の出来事だったが、「私」が紙になるのは、何か新しい旅立ちであるかのように描かれている。ここで、人間が紙になることの両義性が明らかになっていると言えよう。つまり、人間が紙になることはある場合にはネガティブだがある場合にはポジティブなのである。ここで、人間が紙になることが多義的であったところに筋道が入れられる。それは、ポジティブ/ネガティブという両義性によって秩序付けられてくるのである。ここでも、yo-yoの態度は、安易に混沌に流れるのではなく、何らかの筋道の中に破れ目を作ることで、一層その破れ目の混沌を際立たせるというものである。しかも、このような両義性による読者の惑乱は、一時に起こるのではなく、適切な遅れを伴ってやってくる。初め、人間が紙になることはネガティブだった。だが後になってポジティブな面も見えてくる。その間に、記述による時間の集積があるのである。
 yo-yoは、人間が紙になるという暴力の劇を生み出す際にも、その前後の時間を厚く記述することで、何らかの筋道をつけ、時間の厚みのもとでその劇の効果を強めた。一方で、人間が紙になることの両義性についても、それが鋭く両義的になるまでに十分な時間を置き、読者を多義性の中に十分漂わせたうえで両義性の針を突き立てた。確かに、詩は規範逸脱の祝祭かもしれない。だが、yo-yoの手法は、あくまで秩序をうまく操ることにより、その祝祭の効果を最大限引き出すものだったのだ。
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