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田中宏輔はクマのプーさんのミツをなめたか?/こひもともひこ



まずは自由に作品を読んでください。

◆◇◆


『Pooh on the Hill。』 田中宏輔


narrata refero.
私は語られたることを再び語る。
                (『ギリシア・ラテン引用語辭典』)
熊がかわいそうな人間を食うのなら、なおさら人間が熊を食ったっていいではないか。
                (ペトロニウス『サテュリコン』66、国原吉之助訳)
(これを殺しても殺人罪にならない)
                (文芸春秋『大世界史14』)
またそれを言う。
                (横溝正史『嵐の道化師』)
「いやんなっちゃう!」と、プーはいいました。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)
「そうらね!」と、コブタはいいました。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』5、石井桃子訳)
「あわれなり。」と、イーヨーはいいました。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)
それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。
                (泉鏡花『貝の穴に河童のいる事』)
饂飩(うどん)の祟(たた)りである。
                (泉鏡花『眉かくしの霊』二)
それは迷惑です。
                (泉鏡花『山吹』第一場)
為様(しよう)がないねえ、
                (泉鏡花『高野聖』十九)
やっぱり、ぼくが、あんまりミツがすきだから、いけないの
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』1、石井桃子訳)
と、プーは、かなしそうにいいました。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』4、石井桃子訳)
じぶんじゃ、どうにもならないんだ。
                (A・A・ミルン『プー横丁にたった家』6、石井桃子訳)
あのブンブンて音には、なにかわけがあるぞ。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』1、石井桃子訳)
もちろん、あれだね、
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』7、石井桃子訳)
何だい?
                (フィリップ・K・ディック『時は乱れて』12、山田和子訳)
変な声が聞えるんです。
                (泉鏡花『春昼後刻』三十一)
変かしら?
                (リチャード・マシスン『縮みゆく人間』5、吉田誠一訳)
その声が堪(たま)らんでしゅ。
                (泉鏡花『貝の穴に河童のいる事』)
花だと思います。
                (泉鏡花『高野聖』十六)
花がなんだというのかね。
                (ホラティウス『歌集』第三巻・八、鈴木一郎訳)
あの花はなんですか。
                (泉鏡花『海神別荘』)
ラザロはすでに四日も墓の中に置かれていた。
                (ヨハネによる福音書一一・一七)
なぜ四日かかったか。
                (横溝正史『憑かれた女』)
「四日ですか」
                (フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』3、友枝康子訳)
神のみは、すべてのものを愛して、しかも、自分だけを愛している。
                (シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』宇宙の意味、田辺保訳)
誰もそのような愛を欲しがりはしないにしても、
                (E・M・フォースター『モーリス』第一部・11、片岡しのぶ訳)
「こりゃまた、なんのこっちゃい。」と、イーヨーがいいました。
                (A・A・ミルン『プー横丁にたった家』9、石井桃子訳)
何を言ってるんだか分らないわねえ。
                (泉鏡花『春昼後刻』二十七)
と、カンガは、さも思案しているような声でいいました。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』7、石井桃子訳)
これらはことばである。
                (オクタビオ・パス『白』鼓直訳)
そこには現在があるだけだった。
                (サルトル『嘔吐』白井浩司訳)
すべてが現在なのだ。
                (アゴタ・クリストフ『昨日』堀茂樹訳)
記憶より現在を選べ
                (ゲーテ『ほかの五つ』小牧健夫訳)
いったいぜんたい、なんのことなんだか、プーは、わけがわからなくなって、頭をかきました。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)
「花は?」
                (フローベル『感情教育』第一部・五、生島遼一訳)
「花は」
「Flora.」
たしかに「Flower.」とは云はなかつた。
                (梶井基次郎『城のある町にて』手品と花火)
汝は花となるであろう。
                (バルザック『セラフィタ』五、蛯原德夫訳)
花となり、香となるだろう。
                (サバト『英雄たちと墓』第Ⅳ部・7、安藤哲行訳)
それにしても、なぜいつもきまってあのことに立ちかえってしまうのでしょう……。
                (モーリヤック『ホテルでのテレーズ』藤井史郎訳)
どこであれ、帰ってくるということはどこにも出かけなかったということだ。
                (フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)
あれは白い花だった……(それとも黄色だったか?
                (ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』3、野谷文昭訳)
「青い花ではなかったですか」
                (ノヴァーリス『青い花』第一部・第一章、青山隆夫訳)
見覚えました花ですが、私はもう忘れました。
                (泉鏡花『海神別荘』)
真黄色な花の
                (泉鏡花『春昼後刻』三十三)
淡い青色の花だったが、
                (ノヴァーリス『青い花』第一部・第一章、青山隆夫訳)
「だれか、このなかへ、ミツをいれておいたな。」と、フクロがいいました。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)
ぼくは、ばかだった、だまされてた。ぼくは、とっても頭のわるいクマなんだ。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』3、石井桃子訳)
「いやんなっちゃう!」と、プーはいいました。
                (A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)
嫌になつちまふ!
                (泉鏡花『化銀杏』六)
単純な答えなどはない。
                (アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・14、中田耕治訳)
私はもはや、私自身によってしか悩まされはしないだろう。
                (ボードレール『夜半の一時に』三好達治訳)
「それが、問題なんだ。」と、ウサギはいいました。
                (A・A・ミルン『プー横丁にたった家』7、石井桃子訳)
人間に恐ろしいのは未知の事柄だけだ。
                (サン=テグジュペリ『人間の土地』二・2、堀口大學訳)
私は未知のものより、既知のものをおそれる。
                (ヴァレリー『カイエ一九一〇』村松剛訳)
私が話しているとき 何故あなたは気難しい顔をしているのですか?
                (トム・ガン『イエスと母』中川敏訳)
きらいだからさ。
                (夏目漱石『こころ』上・八)
これは私についての話ではない。
                (レイモンド・カーヴァー『サン・フランシスコで何をするの?』村上春樹訳)
どこかに石はないだろうか?
                (ホラティウス『諷刺詩集』第二巻・七、鈴木一郎訳)
どうして石なんだ?
                (フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』11、汀一弘訳)
石は硬く、動かない。
                (サルトル『嘔吐』白井浩司訳)
すべてのものにこの世の苦痛が混ざりあっている。
                (フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山晃・増田善郎訳)
石があった。
                (テッド・チャン『バビロンの塔』浅倉久志訳)
石なの?
                (フィリップ・K・ディック『宇宙の操り人形』第三章、仁賀克雄訳)
「花は?」
                (フロベール『感情教育』第一部・五、生島遼一訳)
「花は」
「Flora.」
たしかに「Flower.」とは云わなかつた。
                (梶井基次郎『城のある町にて』手品と花火)
またそれを言う。
                (横溝正史『嵐の道化師』)
これで二度目だ。
                (泉鏡花『眉かくしの霊』二)
「きみ、気にいった?」
                (A・A・ミルン『プー横丁にたった家』2、石井桃子訳)



◇◆◇

この詩は田中宏輔氏の著作『The Wasteless Land.Ⅶ』に収録されたものです。一読すれば分かるとおり、題名の『Pooh on the Hill。』以外の文章はすべて、他人の著書からの引用文で作られている全文引用詩です。絵画でいうところのコラージュ作品。

それではまず、ここから先へと読み出す前に、この作品を自由に読んだときにあなたが感じた印象を記憶・記録してください。紙に書き出してもいいし、頭の中にしっかりと記憶するのでも、なんでもかまわないので、自分が詩を読んで感じた印象・感想をそのまま残しておいてください。

しっかりと記憶されたら、次のテキストを読んでみましょう。

◆◇◆


『Pooh on the Hill。』 田中宏輔

narrata refero.
私は語られたることを再び語る。

熊がかわいそうな人間を食うのなら、なおさら人間が熊を食ったっていいではないか。

(これを殺しても殺人罪にならない)

またそれを言う。
 
「いやんなっちゃう!」と、プーはいいました。
 
「そうらね!」と、コブタはいいました。
 
「あわれなり。」と、イーヨーはいいました。
 
それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。
 
饂飩の祟りである。
 
それは迷惑です。
 
為様がないねえ、
 
やっぱり、ぼくが、あんまりミツがすきだから、いけないの

と、プーは、かなしそうにいいました。
 
じぶんじゃ、どうにもならないんだ。

あのブンブンて音には、なにかわけがあるぞ。

もちろん、あれだね、
 
何だい?
 
変な声が聞えるんです。
 
変かしら?
 
その声が堪らんでしゅ。
 
花だと思います。
 
花がなんだというのかね。
 
あの花はなんですか。
 
ラザロはすでに四日も墓の中に置かれていた。
 
なぜ四日かかったか。
 
「四日ですか」
 
神のみは、すべてのものを愛して、しかも、自分だけを愛している。
 
誰もそのような愛を欲しがりはしないにしても、
 
「こりゃまた、なんのこっちゃい。」と、イーヨーがいいました。

何を言ってるんだか分らないわねえ。
 
と、カンガは、さも思案しているような声でいいました。
 
これらはことばである。
 
そこには現在があるだけだった。
 
すべてが現在なのだ。
 
記憶より現在を選べ
 
いったいぜんたい、なんのことなんだか、プーは、わけがわからなくなって、頭をかきました。
 
「花は?」
 
「花は」
「Flora.」
たしかに「Flower.」とは云はなかつた。
 
汝は花となるであろう。
 
花となり、香となるだろう。
 
それにしても、なぜいつもきまってあのことに立ちかえってしまうのでしょう……。
 
どこであれ、帰ってくるということはどこにも出かけなかったということだ。
 
あれは白い花だった……(それとも黄色だったか?
 
「青い花ではなかったですか」
 
見覚えました花ですが、私はもう忘れました。
 
真黄色な花の
 
淡い青色の花だったが、

「だれか、このなかへ、ミツをいれておいたな。」と、フクロがいいました。

ぼくは、ばかだった、だまされてた。ぼくは、とっても頭のわるいクマなんだ。
 
「いやんなっちゃう!」と、プーはいいました。
 
嫌になつちまふ!
 
単純な答えなどはない。
 
私はもはや、私自身によってしか悩まされはしないだろう。
 
「それが、問題なんだ。」と、ウサギはいいました。
 
人間に恐ろしいのは未知の事柄だけだ。
 
私は未知のものより、既知のものをおそれる。
 
私が話しているとき 何故あなたは気難しい顔をしているのですか?
 
きらいだからさ。
 
これは私についての話ではない。

どこかに石はないだろうか?
 
どうして石なんだ?
 
石は硬く、動かない。
 
すべてのものにこの世の苦痛が混ざりあっている。
 
石があった。
 
石なの?
 
「花は?」
 
「花は」
「Flora.」
たしかに「Flower.」とは云わなかつた。
 
またそれを言う。
 
これで二度目だ。
 
「きみ、気にいった?」



◇◆◇

まったく同じ作品から、引用元を書いた情報文を削除しました。そうすると、どうでしょう、この作品のヘンテコリンさ、無茶苦茶さに気付かれたのではないでしょうか。

手紙・日記・小説・論文・詩歌等、われわれは普通、文章を読み書きする場合には、作品全体を一つの口調で統一することを無意識に行っています。「です・ます」調で書かれている文章の途中で、いきなり「だ・である」調が出てくると変な文章になるのだ。ところがこの『Pooh on the Hill。』は、しっちゃかめっちゃかな口調をつなげてしまっています。書き方になんらかの決まりや約束事のない(少ない)詩といえども、ここまでしっちゃかめっちゃかに書かれた作品というのは、駄文・駄作として接せられるのが普通でしょう。ところが「引用文で成り立っている」という(無)意識の働きにより、駄文だから読む価値なしの作品とはならず、むしろ、へんてこりんな言葉のつなぎ方がおもしろい作品という印象を与えることに成功しています。

文章を「読もうとする」意識は普通、作品に一定の流れを与える方向へ思考を向かわせます。この作品の引用元の情報文がないものを最初に見せられたとしたら、まず、口調の統一のなさに違和感を覚えたはずです。しかし、「引用文で成り立っている」という無意識下に置かれた思考があるために、口調の不統一さが気にならない、あるいはユーモアとして感じさせられてしまう。コラージュ作品の面白さのひとつです。

引用元を書いた文章が間に挟まっていることにより、われわれは無意識にこの詩を区切って読もうとしてしまう、ということが分かりました。それでは次のテキストへ。

◆◇◆


『Pooh on the Hill。』 田中宏輔

(『ギリシア・ラテン引用語辭典』)(ペトロニウス『サテュリコン』66、国原吉之助訳)(文芸春秋『大世界史14』)(横溝正史『嵐の道化師』)(A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)(A・A・ミルン『クマのプーさん』5、石井桃子訳)(A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)(泉鏡花『貝の穴に河童のいる事』)(泉鏡花『眉かくしの霊』二)(泉鏡花『山吹』第一場)(泉鏡花『高野聖』十九)(A・A・ミルン『クマのプーさん』1、石井桃子訳)(A・A・ミルン『クマのプーさん』4、石井桃子訳)(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』6、石井桃子訳)(A・A・ミルン『クマのプーさん』1、石井桃子訳)(A・A・ミルン『クマのプーさん』7、石井桃子訳)(フィリップ・K・ディック『時は乱れて』12、山田和子訳)(泉鏡花『春昼後刻』三十一)(リチャード・マシスン『縮みゆく人間』5、吉田誠一訳)(泉鏡花『貝の穴に河童のいる事』)(泉鏡花『高野聖』十六)(ホラティウス『歌集』第三巻・八、鈴木一郎訳)(泉鏡花『海神別荘』)(ヨハネによる福音書一一・一七)(横溝正史『憑かれた女』)(フィリップ・K・ディック『アルファ系衛星の氏族たち』3、友枝康子訳)(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』宇宙の意味、田辺保訳)(E・M・フォースター『モーリス』第一部・11、片岡しのぶ訳)(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』9、石井桃子訳)(泉鏡花『春昼後刻』二十七)(A・A・ミルン『クマのプーさん』7、石井桃子訳)(オクタビオ・パス『白』鼓直訳)(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)(アゴタ・クリストフ『昨日』堀茂樹訳)(ゲーテ『ほかの五つ』小牧健夫訳)(A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)(フローベル『感情教育』第一部・五、生島遼一訳)(梶井基次郎『城のある町にて』手品と花火)(バルザック『セラフィタ』五、蛯原德夫訳)(サバト『英雄たちと墓』第Ⅳ部・7、安藤哲行訳)(モーリヤック『ホテルでのテレーズ』藤井史郎訳)(フエンテス『脱皮』第三部、内田吉彦訳)(ブライス=エチェニケ『幾たびもペドロ』3、野谷文昭訳)(ノヴァーリス『青い花』第一部・第一章、青山隆夫訳)(泉鏡花『海神別荘』)(泉鏡花『春昼後刻』三十三)(ノヴァーリス『青い花』第一部・第一章、青山隆夫訳)(A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)(A・A・ミルン『クマのプーさん』3、石井桃子訳)(A・A・ミルン『クマのプーさん』6、石井桃子訳)(泉鏡花『化銀杏』六)(アルフレッド・ベスター『虎よ、虎よ!』第二部・14、中田耕治訳)(ボードレール『夜半の一時に』三好達治訳)(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』7、石井桃子訳)(サン=テグジュペリ『人間の土地』二・2、堀口大學訳)(ヴァレリー『カイエ一九一〇』村松剛訳)(トム・ガン『イエスと母』中川敏訳)(夏目漱石『こころ』上・八)(レイモンド・カーヴァー『サン・フランシスコで何をするの?』村上春樹訳)(ホラティウス『諷刺詩集』第二巻・七、鈴木一郎訳)(フィリップ・K・ディック『銀河の壺直し』11、汀一弘訳)(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)(フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』杉山晃・増田善郎訳)(テッド・チャン『バビロンの塔』浅倉久志訳)(フィリップ・K・ディック『宇宙の操り人形』第三章、仁賀克雄訳)(フロベール『感情教育』第一部・五、生島遼一訳)(梶井基次郎『城のある町にて』手品と花火)(横溝正史『嵐の道化師』)(泉鏡花『眉かくしの霊』二)(A・A・ミルン『プー横丁にたった家』2、石井桃子訳)


◇◆◇

こんどは引用元を書いた情報文のみを書き出してみました。一見すれば分かるように、引用文を連ねて書き出しています。では、われわれはこの引用元のみの文を「読んだ」でしょうか? それとも「見た」でしょうか?

答えは「見た」です。

われわれは、このような情報のみの文章を目にするとき、文面を「読む」のではなく、「見る」のが普通です。電話帳を読む人は、普通はいません。辞書も、知りたい単語を見つけるという意味では「見る」という行為をしたあとに、見つけた単語の内容を「読む」。

「見る」ことにはある特徴があります。それは、自分の知っている情報と一致するものに反応する、ということです。私は引用元の情報文を連ねて書き出しましたが、これは、見た目の混雑具合を増幅させてみるためにワザと行いました。こうすると余計に、自分が知っているところにだけ目が留まる。すると、どうでしょう、ここに挙げられている書物をまったく読んだことのない人でも『クマのプーさん』という言葉には目が留まっているのではないでしょうか。それがこの作品の背景を形作っているといってもいいでしょう。

題名に「Pooh」という表記があり、作中にも頻繁に出てくるクマのプーさん。この作品を最初に読んだとき、みなさんは、プーさんが歩きながらいろんな物事に出会っている風景を思い浮かべたのではないでしょうか。多くの人はクマのプーさんのとぼけた声を思い浮かべたりしたことだと思います。ところが、作品をばらしてみると、さほどプーさんだらけではないことに気付きます。重複したものも含めて引用元の情報文は全部で70個ある中で、クマのプーさんからの引用文は16個です。それを上手く配置することによって、作品全体にクマのプーさんがいるような印象を与えています。




ここまでは、引用詩の技法の楽しみ方を書きました。作品の外形から見つかる読み方の面白さです。つづいて、作品に踏み込んだ解釈をしてみます。作品内容の内側に向かってみます。まず、この作品を読み解くためには、ここに引用された全ての作品を読まなくてはならない、なんてことはありません。重複しているものもありますが、単純に70個の引用文=70冊の本を読まなければ読み解けない詩なんて誰も読まないものです。この作品にはそんな秘密があるようには私は思いません。では、どうやって読んでいくのか? これだけ沢山の引用文を使って作品を書き上げたということから導き出せることとはなんでしょうか。

答えは「情報の連なりを利用する」ということではないでしょうか。

沢山の本や情報に接した経験のある人なら分かることですが、われわれが表現する物事は、かつて誰かによって作られた(書かれた)物の影響の下にあります。これは音楽や芸術全てにいえることです。昔の人がやったこと=轍を、われわれは踏んで歩いている。この轍を利用して、作品を解釈する。私の歩いてきた情報の轍(自分のモノサシ)を使って読む詩。

ある作品を批評する場合、「解釈の仕方はひとそれぞれだ」という考え方を目にすることがありますが、実は、それほど自由な解釈を許している作品というのは数多くはありません。ほとんどの“自由な解釈”というのは、ただ単にデタラメに分析したというものでしかありません。これは、批評側が悪いわけでも、作家が悪いわけでもなく、自由さとデタラメさとがごっちゃになった時代の悪い面なのかもしれません。

この『Pooh on the Hill。』は、その自由さを持った作品です。沢山の書物から引き出された引用文は、読み手が経験してきた読書やその他の情報を引き出してつながっていく。

では最後に、私(こひもともひこ)が解釈した『Pooh on the Hill。』を書きます。
できれば、テキストを片手にしながら、この解釈文を読み進めてみてください。


◇◆

題名の「Pooh on the Hill。」からは、ビートルズの「Fool on the Hill」が思い浮かびます。Foolは、馬鹿・阿呆・愚者・道化といった言葉に翻訳できますので、プーさん=愚者として読んでみましょう。

一行目、ギリシア・ラテン語辞典から「私は語られたることを再び語る。」ということは、遠い昔・遠い距離から再び物事を語るとして作品がはじまるようです。二行目、熊=プーさん=愚者であるのなら、人間が愚者を食い、(三行目)殺しても殺人罪にはならないのではないのか? 愚者は滅びるべきではないのか? 少し大げさですが、ヒトラーの民族差別や、ガンダムのニュータイプまで、さまざまな作品の中でテーマとして扱われている、優秀な民族以外は排除すべきという問題。ドストエフスキーの罪と罰にも通じるテーマ。四行目に日本人である横溝正史からの引用文がでてきます。われわれが実際いる時代・地点に目を戻したといっていいでしょう。これらのことは五行目以降のプーさん一味により「いやんなっちゃう」と、一蹴されます。またその話かよ、と。これだけ自由の許された国に住み、優も愚も混在することの出来ているわれわれ日本人であるにもかかわらず、またその話をするのか? と。それは饂飩の祟りのように、祟られたところで怖くもなんともない話、実害の起こらない地域で、どうしようもないことをさも大事件のように考えて頭を悩ませたところで、どうにもならないのに。

話は進み、音を発見します。
蜂の翅音の先にはミツがある、ミツを溜めているのは花です。この箇所は花と人とがシンクロするような書き方をしています。やがて見つけた花は、ラザロの花だった。ラザロはイエスキリストにより死んだあとに蘇生した人、ということは、復活するもの、死んだと思われていたことに再び生という火が灯ることと読めます。四日を強調しているのは詩歌(しいか)を思わせる言葉遊びでしょうか。

 神のみは、すべてのものを愛して、しかも、自分だけを愛している。
 誰もそのような愛を欲しがりはしないにしても、

は、ちょっとよく分からないと思っていたら「こりゃまた、なんのこっちゃい」と、作中で作品自体を笑っています。いわゆる一人突っ込みでしょうか、ユーモアの溢れる部分です。

それでは、花とは何なのでしょう?
復活するものとして描かれた花は、もちろん人間のこととして読めます。あなたは花であるというメッセージとしても読めます。人が花であるとするならば、記憶(つぼみ)のことをどうこう思い煩うのではなく、現在にいかに咲くのかが大切なのではないのか。そしてこの花は一つのシーズンだけ咲いてあとは散ってしまうFlowerではなく、植物相として続くFloraであるという。われわれはそういった花となる。

しかし、みんなが花となってしまうと、それぞれが個性を主張して優劣を競いだしてしまう。他人の評価を気にしてしまう。それじゃあ、その中で大切なミツを探してみようとするとだまされてしまうプーさん。嫌になっちまいながらも、どうにかこうにか、ここまでは進むことができました。自分は何なのか? 大切なのは何なのか? といった物事を考えるとき、何故ひとは気難しい顔をしてしまうのか? いっそのこと、こういったことを考えないでよい存在(石)になれないものか、でも石にはなれません。人は花なのだから、ではどうやって咲きましょうか。

・おわり
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