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語の受容と解釈の性差について──ディキンスンとホイットマン/田中宏輔

 あるとき、“atom”、つまり、「原子」という言葉が、ディキンスンとホイットマンの二人の詩人の詩に使われているのを発見して、これは、おもしろいなと思ったのである。それというのも、当然、この二人の詩人が、「原子」という言葉の意味を知っていたからこそ、その言葉を使ったのであろうから、ある一つの言葉の概念が、二人の異なる性別の人間のあいだで、おおよそ、どのように捉えられていたかを知ることができるし、その言葉に対して、共通して認識されていたところだけではなく、違った受けとめ方をされていたところもあるのではないかと考えられたからである。ディキンスンは、1830年生まれ、1886年没で、ホイットマンは、1819年生まれ、1892年没で、ホイットマンのほうがディキンスンより10年ほどはやく生まれ、5、6年ほどあとに亡くなったのであるが、二人の詩人の詩のなかで、「原子」という意味で用いられている“atom”という言葉が出てくる箇所を比較してみよう。
 まず、ディキンスンから


Of all the Souls that stand create─
I have elected─One─
When Sense from Spirit─files away─
And Subterfuge─is done─
When that which is─and that which was─
Apart─intrinsic─stand─
And this brief Drama in the flesh─
Is shifted─like a Sand─
When Figures show their royal Front─
And Mists─are carved away,
Behold the Atom─I preferred─
To all the lists of Clay!

すべての造られた魂のなかから
ただひとりわたしは選んだ
精神から感覚が立ち去って
ごまかしが終ったとき
いまあるものといままであったものとが
互いに離れてもとになり
この肉体の束の間の悲劇が
砂のように払い除けられたとき
それぞれの形が立派な偉容を示し
霧が晴れたとき
土塊のなかのだれよりもわたしが好んだ
この原子をみて下さい!
                                              (作品六六四番、新倉俊一訳)


 ホイットマンの詩では、“Leaves of Grass”のなかで、もっとも長い詩篇、“The Song of Myself”の冒頭に出てくる。


I celebrate myself, and sing myself,
And what I assume you shall assume,
For every atom belonging to me as good belongs to you.

I loafe and invite my soul,
I lean and loafe at my ease observing a spear of summer grass.

My tongue, every atom of my blood, form’d from this soil, this air,
Born here of parents born here from parents the same, and their parents the same,
I, now thirty-seven years old in perfect health begin,
Hoping to cease not till death.

Creeds and schools in abeyance,
Retiring back a while sufficed at what they are, but never forgotten,
I harbor for good or bad, I permit to speak at every hazard,
Nature without check with original energy.

ぼくはぼく自身を賛え、ぼく自身を歌う、
そして君だとてきっとぼくの思いが分かってくれる、
ぼくである原子は一つ残らず君のものでもあるからだ。

ぼくはぶらつきながらぼくの魂を招く、
ぼくはゆったりと寄りかかり、ぶらつきながら、萌(も)え出たばかりの夏草を眺めやる。

ぼくの舌も、ぼくの血液のあらゆる原子も、この土、この空気からつくり上げられ、
ぼくを産んだ両親も同様に両親から生まれ、その両親も同様であり、
今ぼく三七歳、いたって健康、
生きているかぎりは途絶(とだ)えぬようにと願いつつ、歌い始めの時を迎える。

あれこれの宗旨や学派には休んでもらい、
今はそのままの姿に満足してしばらくは身を引くが、さりとて忘れてしまうことはなく、
良くも悪くも港に帰来し、ぼくは何がなんでも許してやる、
「自然」が拘束を受けず原初の活力のままに語ることを。
                           (ウォルト・ホイットマン『草の葉』ぼく自身の歌・1、酒本雅之訳)


 こうして二つの詩句を読み比べてみると、ディキンスンの詩においても、ホイットマンの詩においても、“atom”は「原子」であり、語彙そのままに用いられている。引用した箇所について言えば、語の受容と解釈に性差はないようだ。しかし、もしかすると、このことは、“atom”という言葉に、「原子」と「微粒物」といった、わずか二つの語意しかないという理由からかもしれない。この例をもってして、すべての言葉において、「語の受容と解釈には性差がない。」ということは言えないと思われる。したがって、このタイトルの論考は、継続して、他の言葉においても比較検討される必要があるであろう。

追記

 “atom”の古い形は、Old English の“atomy”であるが、これには、二つの意味があって、一つは、“atom”と同じく、「原子」や「微粒物」といった意味であるが、もう一つは、「こびと」や「一寸法師」といった意味である。“atomy”が、これらの意味に用いられている例を一つずつ、シェイクスピア(1564-1616)の戯曲“Romeo and Juliet”と、ポオ(1809-1849)の詩“Fairyland”から見てみよう。
 まず、シェイクスピアの“Romeo and Juliet”から引用する。


O, then, I see Queen Mab hath been with you.
She is the fairies’ midwife, and she comes
In shape no bigger than an agate-stone
On the fore-finger of an alderman,
Drawn with a team of little atomies
Athwart men’s noses as they lie asleep;
Her wagon-spokes made of long spinners’ legs,

それじゃあ、きみは夢妖精(クィーン・マブ)といっしょに寝たんだ。
あいつは妖精の女王で妄想を生ませる産婆役、
その小さなことはほら例の参事会の老人の、
指輪に輝く瑪瑙(めのう)の玉に負けはせぬ。
牽(ひ)いてゆくのは芥子粒(けしつぶ)ほどの侏儒(こびと)。
眠った人の鼻づらかすめ通りゆく。
あいつの馬車の輻(や)ときたら長くて細い蜘蛛(くも)の脚、
                       (シェイクスピア『ロミオとジューリエット』第一幕・第四場、平井正穂訳)


 Shorter Oxford English Dictionary によると、“atomy”が文芸作品にはじめてあらわれるのは、シェイクスピアのこの戯曲らしい。ただし、“atomy”の複数形の“atomies”であるが。
 つぎに、ポオの“Fairyland”から引用してみよう。


They use that moon no more
For the same end as before-
Videlicet, a tent-
Which I think extravagant:
Its atomies, however,
Into a shower dissever,
Of which those butterflies
Of Earth, who seek the skies,
And so come down again,
(Never-contented things!)
Have brought a specimen
Upon their quivering wings.

月のそれまでの役目──
つまり 私には
とほうもない贅沢と見えた
天幕の役目は終った──
とはいえ 月の無数の原子は
驟雨となって 微塵にちらばり、
そのささやかなかたみを、
空にあこがれて舞い上り
また舞いおりる地上の蝶が
(常に心充たされぬ その生き物が)
はるばる運んで来たのだった
おののきふるえる翅に載せて。
                                              (ポオ『妖精の国』入沢康夫訳)


追記2 

 ポオの“EUREKA”のなかで、“atom” という言葉が出てくるもののうち、わたしがもっとも関心をもった部分を引用しておく。なぜ、わたしが、“atom” という言葉にこだわるのか、理解されると思うので。


 Does not so evident a brotherhood among the atoms point to a common parentage? Does not a sympathy so omniprevalent, so ineradicable, and so thoroughly irrespective, suggest a common paternity as its source? Does not one extreme impel the reason to the other? Does not the infinitude of division refer to the utterness of individuality? Does not the entireness of the complex hint at the perfection of the simple?

 諸原子間のこのように明白な骨肉親和は共通な血統を指示していないでありましょうか。かくもあまねき、かくも根絶しがたき、かくもまったく偏することなき、共鳴は、その源として共通な祖先を暗示しないでしょうか。一の極端は理性をして他の極端を考えさせぬでしょうか。無限の分割とはまったき個弧を思い浮ばせないでしょうか。まったき複雑さは完全な単純さを仄めかしていないでしょうか。
                                         (ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)


 終わりのほうにある「一の極端は理性をして他の極端を考えさせぬでしょうか。」といった言葉などは、まるでヴァレリーの言葉のようだ。いや、逆だ。反対である。ヴァレリーがポオを、そして、ボードレールを取り込んでいたのだった。この三人の詩人の考え方の根本が似通ったものであることは、2007年に上梓した拙詩集『The Wasteless Land.II』において、筆者がすでに十二分に述べているので、ここでは繰り返さない。
 ちなみに、atom という単語が、“EUREKA”のさいしょに出てくるのは、つぎのところである。


 The assumption of absolute Unity in the primordial Particle includes that of infinite divisibility. Let us conceive the Particle, then, to be only not totally exhausted by diffusion into Space. From the one Particle, as a centre, let us suppose to be irradiated spherically ─ in all directions ─ to immeasurable but still to definite distances in the previously vacant space ─ a certain inexpressibly great yet limited number of unimaginably yet not infinitely minute atoms.

 原始微粒子における絶対的単一可分性なる仮説を意味することになります。それゆえ空間への拡散によって、微粒子がほとんどまったく消耗しきってしまったと考えてみましょう。唯一の微粒子を中心としてあらゆる方向に──すなわち球状に──先ほどまでは空(くう)であった空間の、測り知れぬ、しかしなお限定された領域内に──言葉につくせぬほど多いがなお限られた数の、想像の許されぬほど微細だがなおいまだ無限に小なりとは言えぬ原子群が、放射されたと想像いたしましょう。
                                      (ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)


 この訳のなかで、1番目と2番目に出てくる「微粒子」と「単一」、そして、1番目に出てくる「空間」は太字である。1880年に、John H. Ingram によって編集された4巻本の Poe 全集の原文では、その個所が斜体文字になっているわけでもないのだが、訳文において太字になっているのは、翻訳者の気まぐれからだろうか、わからない。

 Shorter Oxford English Dictionary で調べたら、Middle English の“atom”という言葉が文献にはじめて掲載されたのは、科学論文で、1477年のことだった。15世紀の終わりである。原子論の存在は、ギリシア哲学に出てくるものであるから、一部の知識人は、そうとうむかしから知っていただろうが、一般に普及したのは、 Shorter Oxford English Dictionary に、In popular use として、A particle of dust, or a mote in the sunbeam (arch.) 1605. と、A very minute portion, a particle, a jot 1630. と、Anything relatively very small; an atomy 1633. の3例が載っていたので、おそらく、17世紀以降であろう。文学作品での初出は、『ガリヴァー旅行記』を書いた、スウィフト(1667ー1745)のつぎの言葉だった。“That the universe was formed by a fortuitous concourse of atoms, I will no more believe than that the accidental jumbling of the alphabet would fall into a most ingenious treatise of philosophy.”『ガリヴァー旅行記』の第三篇の第五章に、百科学の完全な体系をつくりだそうとしている学士院の教授と学生たちが、あらゆる単語を書いた紙を機械操作でランダムに並べたものを収集しているシーンが出てくるのだが、この言葉は、『ガリヴァー旅行記』からのものではなかった。 “A Tritical Essay upon the Faculties of the Mind” (精神機能についての陳腐な随想1707年-1711年)というものに書かれたものらしい。ここ → http://t.co/dcqWz7B ポオの生没が 1809年-1849年なので、ポオが生まれる100年ほどまえに、スウィフトが“atom”という単語を使ったことになる。

 Shorter Oxford English Dictionary の“atom”の項目には、Swift のほかに、 Tyndall と Byron の言葉も載っていた。それぞれ、“Atoms are endowed with power of mutual attraction”、“Rays of light Peopled with dusty atoms”というものであった。チンダルは、JOHN TYNDALL で、引用した言葉は、http://t.co/OvxVZ9A1 で読めるようだ。科学論文である。バイロンの引用は、Shorter Oxford English Dictionary の記述が間違っていた。辞書に引かれていたものは、“ The Two Foscari”という戯曲の Act III にある言葉を勝手につないだもののようだ。もとのものは、http://t.co/pGBImHbx にあるが、“atom”を含んで、意味の通じる部分を4行だけ抜いてみよう。“But then my heart is sometimes high, and hope/Will stream along those moted rays of light/Peopled with dusty atoms, which affored/Our only day; for, save the gaoler’s torch,”

 しかし、なぜ、わたしは、こんなにも、“atom”という言葉に魅かれるのか。「原子」という言葉に魅かれるのか。原子と原子が結合する場合、まあ、イオンとイオンでもいいのだけれど、それは話がややこしくなるので、いまは、原子と原子にしておく、原子と原子が結合する場合、この場合も、共有結合なのか、イオン結合か、あるいは、その両結合の配分がどれくらいの比率であるかというのはさておいて、たとえば、A原子とB原子が1:1の比で結合する場合もあれば、それ以外の整数比で結合する場合もあるであろうし、A原子とB原子とC原子・・・という具合に、多数の原子が結合したり、また結合しなかったりするだろう。それは物質のもっているエネルギー(ポテンシャルエネルギー)と物質に与えられるエネルギー(おもに熱エネルギー)によるだろう。また、2個の原子で1個の分子をつくることもあれば、数百万の原子でポリマーのように1個の分子をつくることもあるだろう。すべては、物質それ固有の状態(ポテンシャルエネルギー)と、与えられる条件(おもに熱エネルギー)によるだろう。結びつく場合もあるし、結びつかないこともある。このことは、わたしに、思考に関する、ひじょうにシンプルな1つのモデルを思い起こさせる。わたしは、学部生の4回生と院生のときに、電極反応の実験をしていたのだが、その実験では、まさに、結びつく物質の固有の性質(おもにポテンシャルエネルギーによるもの)と与えられた条件(電位差による電気エネルギー)によって生成される物質が異なっていたのである。もちろん、思考の生成過程というものは、おそらく、このような原子衝突モデルや、イオン衝突モデルよりは、ずっと複雑なものであるとは思われるのだが。ところで、わたしの行っていた実験では、もとの物質と生成物とのあいだに、中間体の存在が確認されていたし、それは遷移状態とも言われていたものであるが、思考もまた、言語化されるまえの状態、あのもやもやとした状態も、これに似た感じのものなのではないだろうか。思考における中間体、遷移状態のようなものがあるとしたら、この状態に励起するものがなになのか考えるとおもしろい。ああ、しかし、ぼくの行った実験では物質と物質の結合である。物質と物質だけの結合であると強調してもよい。では、思考は、ただ言語と言語が結びつくだけのことなのだろうか。思考が言語化され、表現として言い表されたときには、いかにもそのように見えるだろう。だが、表現にいたるまでの過程で、言葉と言葉を結びつけるさいには、おそらく化学結合における条件、すなわち与えられる熱エネルギーや、圧力などの物理条件に照応するようなものがあるであろう。それが、たとえば、色や形といった姿の記憶であったり、匂いや音や味や感触といった感覚器官の記憶であったりすることもあるであろうし、現に、ただいま、思考中に感覚器官を刺激する感覚であったりすることもあるであろう。唐突に思われるかもしれないが、わたしは、ツイッターが大好きである。ひとのツイットを見て、自分の記憶が刺激されたり、詩や論考のちょっとしたきっかけを与えられることがよくあるのである。ツイッター連詩というものに参加したことが何度かあるが、それにも、大いに刺激され、つぎつぎと、わたしも詩句を書きつけていった。楽しかった。なぜなら、そのわたしが打ち込んでいった詩句は、どれもみな、わたしひとりが部屋に閉じこもっていたままでは、けっして書くことのできなかったものであろうからである。自分ひとりでは、けっして思いつくことができなかったであろう詩句を書きつけていくことができたからである。わたしたちは、機械ではないし、ましてや、コンピューターではない。並列につなぎ合わせられるわけではないが、なにか、それに似たようなこと、精神融合のような現象が起こっているのではないかと、わたしには思われたのである。勝手な思い込みであることは重々承知しているのだが、少なくとも、連詩を書いていたわたしたちのあいだでは、ちょっとした思考のもとになるもの、その欠片のようなものが交わされあっていたような気がするのである。このことがさらに促進されると、おそらく、わたしたちは、つぎのようなものになるであろうと思われたのである。わたしたち、ひとりびとりが、花のようなものであり、蜜のようなものであり、蜂のようなものであると。ツールであるネットワークは、気候であり、花畑であり、花であり、蜜であり、蜂であり、蜂の巣であり、それから蜜を採集する遠心分離機に似た機械であり、それを味わう食卓であり、人間であると。ところで、ミツを逆さにつづると、ツミになる。蜜は簡単に罪になるのである。ネットワークが疫病のように害悪となることもある。わたしたちは、つねに、ネットワークを比較衡量できる手段を傍らにもっていなければならない。それが、教養であり、学問であり、知恵である。それらを傍らに手控えさせておかなければならない。ところが、それが、なかなか容易なことではないのである。教養も学問も知恵も、一般に身につけることが困難なもので、しかも身につけたからといって、それが直接の利益をもたらせることも稀なのである。わたしも、わたしのもつ文学的な教養で、利益を得たことなどまったくない。


地に落ちる一枚のハンカチーフも、詩人には、全宇宙を持ち上げる梃子となりえるのである。
                                   (アポリネール『新精神と詩人たち』窪田般彌訳)

偉大な事物をつくりたいとのぞむひとは、深く細部を考えるべきである。
                                        (ヴァレリー『邪念その他』S、清水 徹訳)

聡明さとはすべてを使用することだ。
                                        (ヴァレリー『邪念その他』S、清水 徹訳)

あらゆるものごとのなかにひそむ美を愛でたポオ
                          (ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品』3、平井啓之訳)

すべての対象が美の契機を孕んでいる
                                (保苅瑞穂『プルースト・印象と比喩』第一部・第二章)

普遍的想像力とは、あらゆる手段の理解とそれを獲得したいという欲望とを含んでいる
                     (ボードレール『ウージューヌ・ドラクロワの作品と生涯』3、高階秀爾訳)

すべてをマスターしたい。だってすべての技術を自分のものにしてなかったら、自分のために作る作品が自分自身の技能によって制限を受けることになるじゃないか
                       (ブライアン・ステイブルフォード『地を継ぐ者』第一部・2、嶋田洋一訳)

芸術家は、自分がみずから親しく知らない人間や事物の記憶を呼び起す
                                  (ユイスマンス『さかしま』第十四章、澁澤龍彦訳)


ここで、ふと、ボードレールが、自分の母親宛てに送った手紙の言葉が思い出された。引用してみよう。


 僕は、信じ難いほどの共感を僕にひき起こした一アメリカ作家(割注 エドガー・アラン・ポオ)を見つけ、そして僕は彼の生涯と作品とについて二つ記事を書きました。それは熱を込めて書いてあります。だがきっとそこには何行かいくらなんでも異常な興奮過度の個所が見つかるでしょう。それは僕の送っている苦痛に充ち気違いじみた生活の結果です。
     (ボードレールの書簡、母宛、一八五二年三月二十七日土曜日午後二時、阿部良雄・豊崎光一訳)

 今や何故、僕をとりかこむ怖るべき孤独のただ中で、僕がかくも良くエドガー・ポオの天才を理解したか、また何故僕が彼の忌わしい生活をかくも見事に描いたか、お分りになる筈です。
           (ボードレールの書簡、母宛、一八五三年三月二十六日土曜日、阿部良雄・豊崎光一訳)


 さらに、ボードレールが、ポオの『モルグ街の殺人』について述べているところを引用してみよう。わたしがポオの『ユリイカ』に魅かれた理由を、その言葉がより適切に語ってくれているように思うからである。


 思考の極度の集中により、また悟性によるあらゆる現象の順を追った分析によって、彼は観念の発生の法則をものにすることに成功した。一つの言葉と他の言葉の間、うわべはまったく無縁にみえる二つの観念の間に、彼はその間にひそむ全系列をたてなおすことができ、また表にでておらずほとんど無意識的な諸観念のすき間を眩惑された人々の眼前でみたすことができる。彼は事象のあらゆる可能性とあらゆる蓋然的なつながりとをふかく究めた。彼は帰納から帰納へとさかのぼり、ついに犯罪をおかしたのは猿であることを決定的に立証するにいたる。
                     (ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)


 「ふかい愛憐の気持から発しているものであるがゆえに、私ははばからずに語るのであるが、よっぱらいであり、まずしく、迫害され、のけものであったエドガー・ポオ」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』4、平井啓之訳)「詩人はその思索のはてしない孤独のなかに入ってゆく。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』2、平井啓之訳)「彼の文体は純粋で、その思想にぴったりしていて、思想のただしい形をつたえている。ポオはつねに精確であった。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)「すべての観念が、思いのままになる矢のように、おなじ目的に向って飛んでゆく。」(ボードレール『エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿)』3、平井啓之訳)ボードレールがポオに共感したところのものと、わたしがポオに共感したところのものがまったく同じものであるとは言わないが、ほとんど同じものであったような気がする。キーワードは、「孤独」と「思索」である。このように、人間というものは、考えつくすためには、まず孤独であらねばならないのだ。

 “Let me now repeat the definition of gravity: ─ Every atom, of every body, attracts every other atom, both of its own and of every other body, with a force which varies inversely as the squares of the distances of the attracting and attracted atom.” この引用は、ポオの『ユリイカ』からで、罫線のあとのアルファベットは斜体文字である。ここの訳文は、「今一度重力の定義をくり返しておきましょう、──「あらゆる物体の、あらゆる原子は、その原子間の距離の自乗に逆比例して変化する力で、自らと任意の他の物体とを問わず、自己以外の、すべての原子を牽引する」(訳文の鉤括弧内の言葉にはすべて傍点が付加されている。牧野信一・小川和夫訳)“Had we discovered, simply, that each atom tended to some one favorite point ─ to some especially attractive atom ─ we should still have fallen upon a discovery which, in itself, would have sufficed to overwhelm the mind: ─ but what is it that we are actually called upon to comprehend? That each atom attracts ─ sympathizes with the most delicate movements of every other atom, and with each and with all at the same time, and forever, and according to a determinate law of which the complexity, even considered by itself solely, is utterly beyond the grasp of the imagination of man.”「単に、各原子が、ある一つの選ばれた地点に、──あるとくに牽引力の強い一つの原子に、引きつけられるという事実を発見したと仮定してさえも、その発見はそれだけで精神を圧倒するに充分だったことでありましょう。──が、私たちがただ今理解せよと命じられていることはいったいいかなることなのか。すなわち、各原子が牽引し──他のすべての原子のこの上なき微妙な運動に共鳴し、それ一つだけを考えてみても人間想像力の把握をまったく許さぬ複雑さを持った法則に従って、他の一つびとつ、あらゆる原子と、同時に、かつ永遠に、共鳴するということです。」(ポオ『ユリイカ』牧野信一・小川和夫訳)そうなのだ、わたしがポオに魅かれる最大の理由が、この「追記2」のさいごに引用したポオの言葉のなかにあるのだ。自我とかロゴス(形成力)とかいったものの源が論理や法則にあるということを、わたしは確信しているのだった。

 窮屈な思考の持ち主の魂は、おそらく、自分自身の魂だけでいっぱいなのだろう。あるいは、他者の魂だけでいっぱいなのだろう。事物・事象も、概念も、概念想起する自我やロゴス(形成力)も、魂からできている。それらすべてのものが、魂の属性の顕現であるとも言えるだろう。わたしたちは、わたしたちの魂を事物・事象や観念といったものに与え、事物・事象や観念といったものからそれらの魂を受け取る。いわば、魂を呼吸しているのである。魂は息であり、息は魂である。わたしたちは息をするが、息もまた、わたしたちを吸ったり吐いたりしているのである。息もまた、わたしたちを呼吸しているのである。魂もまた、わたしたちを呼吸しているのである。あるいはまた、呼吸が、わたしたちを魂にしているとも言えよう。息が、わたしたちを魂にしているとも言えよう。貧しい思考の持ち主の魂は、自分自身の魂だけでいっぱいか、他者の魂だけでいっぱいだ。生き生きとした魂は、勢いよく呼吸している。他の事物・事象、観念といったものの魂と元気よく魂のやりとりをしている。他の魂を受け取り、自分の魂を与えているのである。生き生きとした魂は、受動的であると同時に能動的である。さて、これが、連詩ツイットについて、わたしが考えたことである。ツイッター連詩に参加していたときの、あの魂の高揚感は、受動的であると同時に能動的である、あの自我の有り様は、他者の魂とのやりとり、魂の受け取り合いと与え合いによってもたらされたものなのである。言葉が、音の、映像の、観念の、さいしょのひと鎖となり、わたしの魂に、わたしの魂が保存している音を、映像を、観念を想起させ、つぎのひと鎖を解き放させていたのであった。魂が励起状態にあったとも言えるだろう。いつでも、魂の一部を解き放てる状態にあったのである。しかし、それは、魂が吸ったり吐いたりされている、すなわち、呼吸されている状態にあるときに起こったもので、魂が、他の魂に対して受動的であり、かつ能動的な活動状態にあったときのものであり、励起された魂のみが持ちえる状態であったのだと言えよう。ツイッター連詩に参加していたときのわたしの魂の高揚感は、あの興奮は、魂が励起状態にあったから起こったのだと思われる。というか、そうとしか考えられない。能動的であり、かつ受動的な、あの活動的な魂の状態は、わたしの魂がはげしく魂を呼吸していたために起こったものであるとしか考えられないのである。あるいは、あの連詩ツイットの言葉たちが、わたしの魂を呼吸していたのかもしれない。そうだ。あの言葉たちが、わたしの魂を吸い込み、吐き出していたのだ。しばしば、わたしが忘我の状態となるほどにはげしく、あの言葉たちは、わたしを呼吸していたのだった。

 長く書いてしまった。もう少し短く表現してみよう。ツイッター連詩が、思考に与える効果について簡潔に説明すると、つぎのようなものになるであろうか。目で見た言葉から、わたしたちは、音を、映像を、観念を想起する。これが連鎖のさいしょのひと鎖だ。そのひと鎖は、そのときのわたしたちの魂が保存していた音や映像や観念を刺激して呼び起こす。それは、意識領域にあるものかもしれないし、無意識領域にあるものかもしれない。いや、いくつもの層があって、その二つだけではないのかもしれない、多数の層に保存されていた音や映像や観念を刺激し、つぎのひと鎖を連ねるように要請するのである。つぎのひと鎖の音を、映像を、観念を打ち出させようとするのである。このとき、脳は受動的な状態にあり、かつ能動的な状態にある。つまり、運動状態にあるということである。これは、いわば、魂が励起された状態であり、わたしが、しばしば歓喜に満ちて詩句を繰り出していたことの証左であろう。いや、逆か、しばしば、わたしが詩句を繰り出しているときに歓喜に満ちた思いをしたのは、魂が励起状態にあったからであろう。おそらく、脳が活発に働いているというのは、こういった状態のことを言うのであろう。受動的であり、かつ能動的な状態にあること、いわゆる運動状態にあるということだろう。もちろん、連詩ツイットには、書かれていた言葉は一つだけではないので、さまざまな言葉が、読み手の目のなかに、こころのなかに飛び込んでくる。穏やかであった魂の海面をいきなり波立たせるのである。いくつもの言葉がつぎつぎと音となり、映像となり、観念となって、読み手の魂を泡立たせるのである。魂は活性化され、波打ち、泡立ち、魂の海面に、そしてその海面の下に保存していた音を、映像を、観念をおもてに現わし、飛び込んできた音や映像や観念と突き合わせ、自らのうちに保存していた音や映像や観念と連鎖的に結びつけていく。魂の海は、活性化され、波打ち、泡立ち、自ら保存していた音や映像や観念たちをも互いに結びつけていく。まるで噴水のようだ。連詩ツイットのもっとも美しいイメージは、この魂の波打ち、泡立ち、活性化されたもの、噴水にも似たきらめきを放つものだ。日の光の踊る波打ち、泡立つ、海の水。日の光がきらめき輝く、波打ち、泡立つ、海の波のしぶき。まるで噴水のようだ。これが魂の海の騒ぎ、活性化された魂の形容だ。励起状態の魂の形容である。連鎖のひと鎖ひと鎖が、日の光であり、海の水のしぶきであり、それを見つめる目なのだ。

 ふだんの生活のなかでも、いくつかの拘束原理に引き裂かれながら、わたしたちは生きている。それを自覚しているときもあれば、自覚していないときもある。ツイットされた連詩を目にしたとき、その詩句を目にしたときに、自分とは異なる自我が繰り出した言葉を目にして、自分とは違ったロゴス(構成力)によって結びつけられた言葉を読んで、こころが沸き立ち、自らの自我を、自らのロゴス(構成力)と衝突させたり、混ぜ合わせたりして、同時的に、おびただしい数の複数の自我とロゴス(構成力)を獲得していったのだろう。あの歓喜は、興奮は、そのおびただしい数の複数の自我とロゴス(構成力)によってもたらされたものなのであろう。生成すると同時に消滅しゆく、あのつぎつぎと生まれては死んでいくいくつもの自我とロゴス(構成力)たち。まさしく、あれは噴水のようであった。魂の海を波立たせ、泡立たせた、あの興奮のあとも、あの歓喜の調べは、わたしのなかで、いまも少しくつづいている。そうだ。以前に、ある一人のLGBTIQの詩人の詩を訳しているときに、 water に、「波のような形を刻みつける」という意味があることを知った。「魂に波のような皺を刻む」と訳したように記憶している。皺は物質ではない。折れ目と同様に。しかし、それは実在し、目に見えるものだ。では、魂の皺もまた魂ではないというのであろうか。わたしのこころの声は、それは違うと言う。思考傾向というものを自我やロゴス(構成力)と同一視することはできないが、きわめて近いものであるとは思われる。これは「理系の詩学」にも書いたことだが、鉄の針を、磁石で一方向に何度もなでつけてやると、その鉄の針が磁力をもつことを、わたしに思い起こさせる。わたしたちの自我とかロゴス(構成力)といったものは、そんな針のようなものでできているのだろうか。そんな針をいくつも、たくさん、わたしたちは持っているのだろうか。しかもその針に磁力をもたらせる磁石の磁力の種類は二種類とは限らない。いくつもの、たくさんの種類の磁力が、磁極が存在するのであろう。磁化されたわたしたちの鉄の針もまた、他者の鉄の針を磁化することになるであろう。互いに磁化し、互いに磁化される、そうした、複数の、おびただしい数の針と磁力からなる、わたしたちの魂の層の複雑さに思いを馳せると、認識の眩暈がする。

 ところで、無数の針でできた魂といえば、かつて、わたしが書いた、わたしの詩句を思い出す。「わたしとは、棘皮(きょくひ)を逆さに被ったハリネズミである。」しかし、これは真実からほど遠いものであったようだ。真実は、こうだったのだ。

わたしとは、無数の針である。

と。
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