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非連続/かのっぴ

(Twitter用慷慨)
素数は1かその数にしか分解できないから、そのものをそのものとして受け取る他はない。関連性を捏造する無駄な抵抗を極力排して、ほかけさんの「色のない虹」に向き合ってみました。


「色のない虹」ほかけさん
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267628

 この詩に引き込まれたのは本当に偶然だった。事故のようなものかもしれない。この詩を読んで「天の橋立を山頂からさかさになってのぞき込むってどういうこと?」と、横で布団に入ったばかりの妻を起こして聞いてみなかったら、多分よく分からないままに通り過ぎただろうと思う。大阪に越して7年が過ぎたのにいまも天の橋立に行ったことがない、もしくは常識としてそれを知らない私に、妻は軽くあきれながら、「こうするんだよ」と教えてくれた。足を軽く開いて、身体を前に曲げて、両脚の間から顔を覗かせた。髪は下に垂れて、少しせり上がった掛け布団のうえについた。私も真似をしてみた。

 天の橋立というひとつの手がかりを得たものの、それでこの詩が分かったわけではなかった。分かるということが、辻褄のあった物語を作品のなかに見出したり、作品に隠されたひとつの主題を探り当てたりすることだとすれば、私はいまもこの詩を分かってはいない。無理に分かろうとせずに、無理に詩以外の言葉に翻訳せずに、詩は詩として眺めて楽しむ。自然数でいう素数のように、1とその数しか約数がない、ほかの数との公約数はない、詩とはそういうものだ。そんな考えをもっているので、言葉を残すことは少ない。でも私はこの詩について言葉を残すことを選んだ。不純な動機がなかったとはいえない。一度はこの詩を通り過ぎて現代詩フォーラムを離れて、ほかのサイトをいろいろ巡っていたとき、文学極道(※)でもこの詩が投稿されていて、批評のレスが寄せられているのを知ったのだ。

(※)文学極道のURL
 トップ
 http://bungoku.jp/
 「色のない虹」のスレッド
 http://bungoku.jp/ebbs/bbs.cgi?pick=6632

 それらのレスと自分の読み方との差異や距離を知りたいと思った。文学極道のレスを一文字でも読む前に何としても自分の言葉でこの詩を語らなければいけない。そんな不条理な使命感にとらわれた、冗談のような夜だった。そうして書き上げたのが下記のコメントだった。

http://po-m.com/forum/pcommview.php?hid=562&did=267628

まとまらない雑感、本当にその通りだった。どこか浮き世離れした世界観をこの詩が持っているように思えたのだ。世俗の価値観の全てを捨てて、この詩の世界に起こるひとつひとつを確かめて感じてみたい。そう思わせる何かがあったのだと思う。曼荼羅というものについて私はよく知らない。それでもこの詩が何であるかを考えたときに曼荼羅という言葉が浮かんだ。いつか本物の曼荼羅をちゃんとみてみたい。そして感じてみて、この詩から受けた感慨と同じだったならよいな、と思う。いま、最初にこの詩を感じたときの記憶を辿り、またあらためて詩を読んで言葉を残そうと思う。





<第1連>
 雨上がりの虹、手を振る可愛い子、その子には羽根がある、という絵に描いたようなファンタジーで始まるけれど「ほころびを繕う」という言葉にわずかに差した影を感じる。タイトル「色のない虹」と呼応して、風のない丘にかかる虹も、華やかさのなかに影、不自然さ、不穏さがほんの少し、あくまでほんの少しだけ感じられるように思える。

<第2連>
 「ほころびを繕う」から「アイマスクを縫う」へと作業内容が少し変わる。針に糸を通すことに難儀している様子がリアルに描かれる。そして「生きることは難しい」という言葉につながる。第1連で光のなかに少しだけ差していた影が、第2連では強調されている。この世界の光や色や熱を覆い隠してしまいかねない「アイマスク」というアイテムが描かれる。針に糸を通すことが難しいのは、不慣れなせいか、自信を喪失しているからか、身体的な不調からか、いずれにしてもそうした困難に直面している様子が細やかなしぐさを描くことで印象付けられる。これらの影の描写が「針の穴を通すように」という直喩に厚みを加える。「生きることは難しい」は唐突かもしれないが、厚みが加わった直喩は味わい深い。
 すんなり読んでしまいそうだけれど、第1連と第2連は、実はつながっていないのではないか。私はそう考えている。第2連の影を理解するために、第1連と同じ設定を引きずって読むことは必要だろうか。第1連との接点は、縫い物であることのみ。そう考えないと「ほころびを繕う」から「アイマスクを縫う」への変化に対する不必要な説明を求めたり、第1連の「可愛いあの子」が実は苦労の多い可哀想な子であるというような解釈が可能になったりする。それでは光と影が混じりあって、それぞれの印象がぼやけてしまう。それにそうしたストーリーテリングに囚われた書き方で完成度を高めたならば、アイマスクは登場しなかっただろう。唐突にアイマスクが登場する書き方のほうが私は好きだ。

<第3連>
 ポーズをとってもらった妻の両脚や掛け布団に接した垂れ下がった髪の毛を思い出しながら、またWikipediaを別のタブで開いて天の橋立の基本情報を参照しながら読んでいる。景観のスケールから考えれば人間は小さい小さい存在だ。妻の両脚を針に、妻の髪の毛を糸に見立てることもできそうだ。第2連との接点はそれくらいで十分な気がする。「あのひと」は多分「あの子」とは違う。天の橋立の基本情報は、この詩の世界のことを確かめるのに役に立つとは思えなかったけれども、関連項目のなかに「股のぞき」があり、そちらには見えざるもの、異形のものへとつながる回路があるような気がした。それらをもってしても、第3連は依然、謎のままだ。こうした小賢しい知識を寄せ付けない、ありとあらゆるものを、あるがままのかたちで飲み込み、そのままひとつの世界として差し出すかのような不思議な感じだった。形のうえでは「さかさまになるといい事がある、」という楽観的で股のぞきを楽しんでいる一行が、以下に描かれる世界を言い当ててはいる気がするけれど、いいこと、と要約出来そうもない非常に複雑な描写が5行続く。
 「よく晴れた一日に」と「雨はこめかみから毛髪へと向かう」はきっと連続しない。楽観的な側面と悲観的な側面とが、それぞれ混じりあうことなく置かれているのだと思う。天気という大きなものと、人間という小さなものの対比を見ることも出来るし、人間という小さなもののなかで起きている出来事も「雨」という大きなスケールで描かれるくらい重大なことなのだと見ることも可能だろう。
 「髪を伝って地面に滴る」と「締めきれない水道の蛇口がいつまで経っても凍らない」はきっと連続しない。前の行の雨が滴る様子と水道の蛇口を並べて印象付けている。それだけでなく「いつまで経っても凍らない」から「時間が経てば凍るはず」ということが連想され、寒さが人間を覆っていると考えることも出来そうだ。
 そのあとの3行は黄昏から薄暮を経て闇へと至る情景として普通に読める。人間を覆っていた寒さと、赤々と燃える地面の熱は、やはり連続しないものとして独立に捉えるのがよいと思う。この時間帯を表現する言葉として「逢魔時」という言葉があり、「大禍時」という漢字が当てられることもある。「地面が赤々と燃えはじめ」や「切れ目のない紫紺が辺りに充満」という、色に関するやや大げさな表現にそのあたりの禍々しさが漂っている感じもする。「時は終わらない」もやや不穏な感じだ。その一方で「ねぐらへ帰る」「憧れと共に見送っている」という、いたって平穏な感覚も共存する。
 相対立するものが共存し、色彩、天気、温度、すべてが混じりあわないまま投げ込まれている世界は「色のない虹」とどう関わるのか。頭を垂れていた人間からみた色彩と解すれば説明は付く気がするけれど、無理には繋げないでおこうと思う。

<第4連>
 これまでの色彩豊かな描写から一転してでてきたのはモノクロ写真。第3連に登場してきた水道の蛇口といいこのモノクロ写真といい、描かれた世界の大きさから考えれば小さなものを連想させる小道具に思える。ただしそれは、この世界のなかに無理やり水道の居場所や、モノクロ写真の居場所を作ろうとすれば、の話だ。水道は人間を包む水と寒さを示した。それではモノクロ写真はどうだろう。時の経過を示すものではないだろうか。第1連から第3連までを過去の出来事としてこの連に関連付けることも(関連付けないことも)できる。「いのちを無くした紙」は、かつてそれにいのちが宿っていたことを連想させる。いのちは、色なのだろうか。




 深読みする作業を通じて、連続する何かが見えてきた気もする。でもこの詩は、あくまで部分、部分の言葉に踏みとどまって、最大限各部分の言葉がもつ力を膨らませて読んだほうが魅力的に思える。膨らませた言葉の力が、混じり合うことによってその力を相殺されることなく、全体として作品から来る力が読み手自身の中で高まってゆく。そんな読み方もきっと楽しい。
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