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雨女薬の「僕の母」について/浪玲遥明

 雨女(あまの)薬(くすり)は、現在高校3年生の女の子で、来年度から大学生になる。「僕の母」(http://blogs.yahoo.co.jp/it_ut_tsut_l/13055668.html)は、彼女が中学2年生の時、自身のブログで発表した詩だ。
 女子中学生が自身のブログに詩を綴るなんてことはありふれている。私は彼女が詩とどのように向き合ってきたのか知らないが、この詩を含め彼女がブログにアップしているいくつかの詩を読む限り、詩について勉強を重ねてきた人だとは思えない。異様なほど長い行間にも、そのことは表れていると思う。
 それでも私が彼女の詩、とりわけ「僕の母」という詩が好きなのは、彼女の詩から熱や衝動のようなものを感じるからだ。もちろん、熱や衝動だけで詩を書ける、ましてやそれだけで他人を揺さぶることができるなどとは微塵も思っていない。ただ、これは詩に限ったことではないが、作者の「どうしようもなさ」がある瞬間偶然形になった、そんな作品はやはり魅力的だと思うのだ。

 詩の中の「僕」は、ぽつんぽつんと言葉を落としていく。この詩で「僕」は、しゃべっているのだ。まぎれもなく声を出して、読み手に語りかけている。その一言一言の間に空いた時間は、そのまま行間の長さだ。
 この詩は、『似たフレーズのまとまり』を『つなぎのフレーズ』で繋げていく、という構造でできている。『似たフレーズのまとまり』で、ドッと感情が溢れ出す。それによって緩急が生まれ、非常に効果的である。
「僕の母」は、全体が非常にストレートかつ感情的な言葉で書かれているが、少なくとも私は、それらの表現が過剰だとは全く感じない。きちんと言葉が「僕」と釣り合っているからだ。それに、ただ感情的なだけではない。「僕のことを見て/よく笑ってくれます/よく泣いてくれます//僕のことを/よく話に出してくれます/よく声をかけてくれます」という伏線は、「―あんたは家の恥やね/笑ってた/―人を困らせることしかできひんの?/泣いてた/―うちの子供がまた暴れてるから/話をしてた/―早くどっかいって 消えて/声をかけてくれた」という部分できちんと回収されている。またこの部分には次の『似たフレーズのまとまり』と比較したとき、「笑ってた――でもしんどくて」「泣いてた――でも悲しくて」「話をしてた――でも涙が出てきて」「声をかけてくれた――でも息がしずらい」という対応関係もあるのではないだろうか。この詩が、ある程度きっちりした論理構造を持っているのは確かだ。
 「僕」は母親に愛されていないということを絶対に認めようとはしない。別にこれは屈折でもなんでもなく、ごく自然なことだと思う。もちろん、自分が母親に愛されていないということは知っていて、それは「母」とよそよそしく呼んでいることからも明らかだが、ただ、認めようとしない。「僕を 僕を 僕を」の連呼には、それがモロに表れている。私は初めてこの詩を読んだとき、この「僕を 僕を 僕を」の連呼に鳥肌が立つほど揺さぶられた。本当にリアルな「僕」の叫び声が聞こえた気がしたからだ。この部分は、この詩を詩たらしめているとさえ思う。
 「僕を 僕を 僕を」以前には敬体が、以後には常体が用いられていることにも注目したい。この詩は、「僕を 僕を 僕を」を境に、前半と後半に分かれているのだ。
 この詩は、「僕」が声を出して喋っているのだと先に述べた。前半は無理して明るい声を出し、多少上ずった口調で話しており、後半はずっと低く、冷静な口調で話しているように私は感じる。前半の無理している感じは、どことなく不自然な敬体の使用から来る。
「僕を 僕を 僕を」は突破口なのだ。皮膚の下に溜まっていた膿が、皮膚に小さな穴を開けた瞬間どっと出てくる。6行繰り返されているが、すべての行が均質ではない。声のトーンはだんだん上がり、最後には金切り声にさえなっている。そして、一転して冷静で小さくて諦めも混じった声「母は愛してくれてる」が来るのだ。
 前半と後半では、「僕」の在り方が全く違う。前半では、母親に対しては「~してくれます」、自分対しては「~してしまいます」と書かれている。圧倒的に自分が下であり、母親が上だ。しかしそこには、皮膚の下の膿による鈍痛が隠れている。それが一転して、後半では、母親については「笑ってた」、自分についても「でも息がしずらい」と非常にドライに、平坦に書かれているのだ。皮膚の下の膿が搾り取られ、あるいは自ら絞り出し、若干脱力している。残っているのは乾いた痛みである。

 「僕の母」を読むと、どうしても思い出してしまう詩がある。黒崎立体の「ねじ」(http://kazahana.main.jp/re/200902.pdf)だ。「ねじ」という詩については、1、2、4連は「わたし」と「わたし」の兄弟についての説明、3連目は題名にもつながる「わたし」の母親観の提示、ということになるのだが、問題は5、6、7連目で、ここで大きく「わたし」が屈折する。小学校低学年くらいの子供に妹や弟ができると、母親がその子の世話ばかりするのでやきもちを焼き、妙に母親に甘えだすことがあるというのは聞いたことがあるので、5連目のような心情はそこまで珍しいものではないのだろう。しかしそれが、6連目で「もう、なんにもうまれてこない」と、母親の愛情を奪っていくものへの敵意もしくは恐怖に変わり、最後に母親への呪いで締められる。
 「ねじ」の5連目と6連目、6連目と7連目の間には、時間の断絶がある。詩全体に、時間的な広がりがあるとも言える。5連目は弟が生まれた直後の「わたし」の言葉であり、6連目はそれから多少は時間が流れたがまだ子供の「わたし」の言葉だ。そして、最後の「おかあちゃん、あとはもう死ぬだけだね」これは、大人になった「わたし」の言葉なのである。なぜなら、これは、親と子供のどうしようもない力関係から抜け出して、はじめて発することができる言葉だからだ。「僕の母」の「僕」は、未だ親と子の力関係に縛られているし、母親の愛情を求めてもいる。母親に敵対する力も意思もない。だからどこまでも受動的で、結果として壊れてしまう。徹底的に受動的であることは、「僕の母」の大きな特徴だ。
 
 ただ、「ねじ」と比べて読んでみても、「僕」の徹底的に受動的な態度には、受け入れがたいものがある。一人称が「僕」だからだ。
 雨女薬のブログは、二〇〇九年三月十三日に始まり、二〇〇九年七月三日まで続いた後長く放置された。その約4カ月の間に彼女は7篇の詩をブログに投稿しているが、すべての詩の一人称が「僕」である。(現在ブログは更新が再開されている。)
 どうして彼女が「僕」という一人称を使って詩を書いたのかは解らない。詩の中で「私」ではなく、「僕」を使うことが、彼女なりの詩との距離の取り方だったのかもしれない。ただ、「僕の母」という詩だけは、一人称が「僕」では読みにくい。(他の6篇の詩については「僕」という一人称でも特に問題なく読める。) 単なる偏見なのかもしれないが、私は自分自身男だということもあり、相手が親であれ何であれ、中学生以上の男はある程度噛みつく牙を持っていると考えているからだ。
 小学生男子だとすれば、この徹底的に受動的な態度もある程度納得できるが、小学生男子を想定して書かれた詩にしては、あまりに文章がきっちりし過ぎている。中学生以上の男子を想定して書かれた詩にしては、あまりに受動的過ぎる。つまり、どうしても「僕」という基本的に男が用いる一人称はこの詩になじまない。
 詩中の一人称と書き手を結び付けることは普通ないが、私はこの詩に限っては、「僕」は中学生の女の子であると考えていいと思う。必ずしも雨女薬と「僕」はイコールではないが、この「僕」には雨女薬が当時中学2年生の女の子だったことがかなり反映されているからだ。

 「僕の母」はめちゃくちゃに後味の悪い詩だ。「ねじ」のように、母親に牙をむけばあるいはまだ読みやすい詩になったかもしれない。しかし、この詩の中で「僕」は、一度も直接的には母親を否定しない。むしろ、「僕の母はとってもいい人です」と肯定から始まる。そして、「僕の母はこんな人」で終わるのだ。最後「僕の母はいい人です」とは言えなかった。しかし相変わらず受動的である。母親に愛されていないことから目をそらし続けることができず、目の前にその現実が立ちはだかっている、そんな状態で終わる。微妙な意識の変化はあるものの、何も状況は変わっていない。膿なら出して消毒すればよいだけだが、家族はどうにもならない。そういう真っ暗闇の中から叫ぶように書かれた詩だからこそ、この詩の言葉は強靭で、どうしようもなく読者に迫ってくるのだ。
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