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しろいろさんと大森靖子さん/よもやま野原(佐藤真夏)

 今回は、しろいろさんと大森靖子(おおもりせいこ)さんの表現する世界をのぞいていこうと思います。ふたりとも、私がいい意味でショックを受けた方ですので、大切に考察していけたらな、と思います。

 まずは、山田航さんの考察を参考にしつつ、しろいろさんの作品の特徴を整理していきたいと思います。

しましまの正義を装填した銃を抱えて眠る 夜よ明けないで
Tシャツを着替えるように毎日を無造作にいきて沢山失って  
間違って指さして、あれは春じゃない、の白昼夢だよ、
白線の外側で聞く警笛がとてもきれいで少し目を閉じた
目が覚めたのは君だけださあ早く、首のバーコードをひっぺがせ!
大人って死にぞこないの子どもでしょ?錆びたブランコ軋ませわらう

初期の作品から最近作までを時系列順に並べてみたが、破壊のイメージが目を引く。銃や爆破のイメージもそれに重なる。生ぬるい日常や幸福を拒否し、「子ども」であろうとする姿勢が見て取れる。破壊願望と成熟への拒否が、しろいろの歌のキーワードであろう。

山田航「現代歌人ファイル83 しろいろ
http://d.hatena.ne.jp/yamawata/20100505/1273062675



 確かに、山田航さんのいうように、しろいろさんの作品からは随所から破壊願望と成熟への拒否がよみとれます。特にそれらを象徴しているのが、「チョコレイトマシンガン(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=148258&from=listbyname.php%3Fencnm%3D%25A4%25B7%25A4%25ED%25A4%25A4%25A4%25ED)」のなかの

マシンガンにチョコレート詰めてぶっ放す発情都市への宣戦布告



という一首です。主体は、「マシンガン」という兵器に甘さや幼児性を連想させやすい「チョコレート」を詰め、成熟した人々の社会である「発情都市」に宣戦布告します。しかし、決着はつきません。なぜなら、この歌にはつづきがあり、

マシンガンにチョコレート詰めて逃げだそう裸で泣いてるわたしをさがしに



に結着するからです。最終的に、主体は戦いを放棄して裸の(本来の、というニュアンスで受け取ります)わたしをさがしにいくようですが、それはどういうことなのかちょっと考えてみます。

 ひとりの「わたし」が二分されているとすると、裸のわたしが主体の〈本質的な部分〉なら、戦うわたしは〈現象的な部分〉といえます。このような外面的には戦い、内面的には泣いているという「わたし」の不安定さ(言い換えると、内と外が〈合致しない〉構造)は、チョコレート(内)の入ったマシンガン(外)の構造につながります。マシンガンは「わたし」そのもので、身を削りながら戦っていると思うと痛々しいですね。本来のわたし(=チョコレート)を弾丸としてぶっ放してしまいますから、戦えば戦うほど、中身が消費され、空っぽに近づいていくのでしょう。それを「さがしに」(=回収しに)いくために戦いを放棄するのでしょうから、ここから見えてくるキーワードは、成熟の拒否というよりは欠乏感や危機感からくる〈混乱〉、また、そもそも成熟に価値を見出せないという〈虚無感〉ではないでしょうか。

 次に、大森靖子さんの歌を聴きながら〈子ども〉というものについてよくよく考えていきたいと思います。

大森靖子「君と映画」「プリクラにて」
http://www.youtube.com/watch?v=yeat4nctFx0

 これらの歌には、「知らない誰かに財布を握られ」たり、「(見えない人に)あたしのリモコン握られる」のがこわいという、恐怖をベースにした社会(他者)への敵意があります。「あたし」の目からみた社会には「かみさま」は消費されるものとして登場し、「あたらしい」かみさまはお金で買えます。その本質は映画であり、漫画であり、テレビです。つまり「かみさま」に「かみさま」という本質はなく、なんでも「かみさま」になり得る=「かみさま」なんていない、という構図が成り立っています。これは信じたいものを信じればいい、という究極の自分主体の世界です。だからこそ、知らないうちに他者に操作され、オリジナルでないものをオリジナルだと思わされて(だまされて)いると気づくと苦しいのでしょう。ウソをウソとも思わぬほどウソにまみれている社会を「おとな」として受け入れる(諦める)ことができない(したくない)から、「はなからおとなをやめときましょう」になるのでしょうか。
 また、「魚に泳ぎかた 鳥に飛びかた 君に歩きかたあいしかた」を教えたひとがいないように、本能こそがオリジナルという立場をとり、「ロングもいいけどショートもいいね  オリジナルなんてどこにもないでしょ」と対比させています。この流れから「それでも君がたまんない」のは「あたし」が「君」を本能的に「あい」しているせいだと解釈できます。この「あい」が自分のオリジナルだという認識により、自分の本能を通して「君」を信じることができるのでしょう。「あたし」にとって「君」は「かみさま」になりつつありますが、そのあたらしい「かみさま」は「君と映画」というタイトルに象徴されるように、映画を「かみさま」とする人物で、このふたりの間の溝はどうしても埋められない、私にはそんな風に聴こえます。どうしてそんなことになるのでしょう。大森さんの「キラキラ(http://www.youtube.com/watch?v=ugMgdYHGtc4)」という曲を聴いてみます。

明日の朝もとても早いのに眠ることも忘れてしまうような生きがいがこんなもんだなんてウソみたいだろ。(キラキラ)君の毎日がたいせつさ。(キラキラ)君の毎日に触れたい、体ごと。ラブホテル。ウソだらけでしょ。明日の朝もとても早い。

※歌詞の表記は公式ではありません



 ウソに気付いてしまうこと、そして、見つけたウソをウソのまま“そういうものだ”と見逃すことができないことが、歌の内部にひろがる社会における〈子ども〉の素質なのでしょう。大人になれない子どもではなく、社会から一方的に〈子ども〉と決めつけられている敏感で素直な大人です。反対に、社会でいうところの〈大人〉は鈍感になった子どもといえ、「大人って死にぞこないの子どもでしょ?」というしろいろさんの立ち位置がはっきりしてきます。
 ただし、大森さんの曲が、〈子ども〉と呼ばれる存在でいたいと思うことに対し、それが間違っていないと肯定的であるのに対し、しろいろさんの作品では、みんなウソ、という意識に、“自分も誤っている”という認識が加わっています。

ニセモノをニセモノとして愛しなさい 商店街は長すぎるけど
反抗期は死ぬまでつづける 執拗に電信柱ローキックしながら

しろいろ「誤発」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=197248&from=listbyname.php%3Fencnm%3D%25A4%25B7%25A4%25ED%25A4%25A4%25A4%25ED



この2つの歌が収められている作品群のタイトルは「誤発」です。ニセモノをニセモノとして愛するのも誤っているけれど、ずっと〈子ども〉のままでいるのも誤っている、ということでしょう。では、正しいものはなんでしょうか。

匿名の傷のかたちを
彫るように
想いはぜったいタダシイ刃

しろいろ「ユモレスク」
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=195651&from=listbyname.php%3Fencnm%3D%25A4%25B7%25A4%25ED%25A4%25A4%25A4%25ED



 ここで、正しいものは、想いと表現されています。しかしこの作品集のタイトルは「ユモレスク」。語源は、ユーモア、冗談という意味を含みます。決して想いも正しくはないのでしょう。そして、

なにもかもうそっぱちでもひりひりするひふ1ミリの世界がいとしい



を読むと、もはや、なにが正しくてなにがウソかわからなくなっている、というところを超えて、「どうせみんなウソなのだから、現状を打ち破るためならウソでも構わない」という方向性がみえてきます。これは大森さんの「キラキラ」と同じ方向であり、ふたりの作品の重なる部分です。
 ただし、先ほど述べたように、ふたりには違いがあるのは確かです。大森さんの曲が〈子ども〉を連れて歩くのに対し、しろいろさんの歌には〈子ども〉に引きずられている部分があります。山田航さんが、先に挙げたブログの中で、しろいろさんの歌について「不思議な残酷さと切なさ」があるとおっしゃっていますが、この、混乱からくる受動性がその所以といえるのではないでしょうか。

おしまい
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