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「荒地」/安部孝作 

いかいかさん「荒地」
http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a06

 荒地では存在というが存在が無視されていく。自然とは無と等しく、無へと移ろいで行く。豊穣という自然の持つ力から見放された土地、あるいは根こそぎにされた土地。
 それは収奪されてしまったものなのか?
 あるいは、地球規模での気象現象で形成された土地なのか?
 何か大きな力にかき消れた存在の根をはることのできない固い大地。そこには何が生えようと、何が置き去りにされようと、まるで軽い、風雨にさえ触れられない、土地からは浮遊する。だからこそ荒地では存在という存在は放置されたまま、朽ちてゆかない、錆びつかない、忘却さえ、残されたまま。そこの中ではだから、生物・植物が野放しに充溢してもいるのだろう。けれどもそこで生まれるものは、やはり実りないものでしかない。この詩において「荒地」とはただ地理的な特徴から探られるものではなく、むしろ反転して、耕すべき地、果てのない抗いの地平であると思われる。すなわち、一つの詩を書く際の詩を書いているようにさえ思われる。けれども、荒地においてはやはり言葉が根付かない。まさに冒頭では乏しき詩作が示されている。

>さようなら私たちの懐かしい荒地
>実りを知らない荒地の春
>私たちの残り香だけが香る
>私たちの稲の家は
>荒地の春に燃やされて
>私たちは駆けていく
>どこまでも遠くへ


 確かにあったはずの、そして喪われた場所としての荒地は回想されることによって、荒地としての景観を喪い、実りない荒地を歩く記憶の所有者は、荒地と別れを告げることとなる。秩序なき場所の不毛のなかを漂う自己の足跡がそのまま残りながら、その足跡は秩序を作り出す痕跡にすぎなくなる。ただしそれはあくまで痕跡であって、ただ残った者、おかれたもの。深まらないもの。それでもそんな出来い合いの荒地に残される自分の存在を確かめる。春、生命の火が灯ると、乾いた荒地は燃やはじめ、灰ばかりの荒地だけが残される。そこを耕そうと(安住しようとしていた)私たちは追われるように駆けていく。荒地の充溢を無へと帰して、実りある大地を作り上げるため。果てしなく広がった荒地は、果て無く燃える。だが駆けて行っても、消え去らない痕跡。かつてはいた大地、そして戻れない予感。放置されたままなのだ、荒地においては何事も。

 そして二連目、現在。一連目における「過去」を知らない「私たち」は知りたがる、どこまでも具体的に、体験するかのように。あるいは体験したいと、せがむように。それは同時に、言葉を求めて、耐え難い「無知」から逃れるように、せがむ。

>例えば、例えば、と、
>子供の様に聞く
>それは私たちが知らなかった春
>何れ会うことになるでしょう
>あなたたち


 この詩はここで生み出されていく語りのテキストを用いて時間の感覚を押し広げる。「何れ」は、ここでは期待された時期を示し、運命的に来るべき時を予感させる。すなわち記憶が語り継がれていく、家族的叙事詩を連想させる。家族的叙事詩とは、連綿とした語りのテキストと同体でありながら、遺伝的な運命を定めていて、生成的でいながら「意識の流れ」のように遊びがない。ここには、厳しくとも認めなければならなない現実がある。それは、詩という音声=生成されるテクストが、より構築された美を求めているという象徴表現の出現を予感させ、且つ、そのような方法的な次元にとどまらず、「荒地での春=燃え始める春をしらないこと」がいつぞやの不毛な言語現象を彼方へと押しやる力を感じさせる。

>私たちの乳母は未だに
>狼の群れの中で
>炎の晩をしているのだから
>私たちは出て行ける
>そして雨が、雷が
>私たちの荒地を打つでしょう、
>雨が止まる瞬間、
>私たちは待ちましょう、
>どこまでも長い時間の中で、
>どこまでも下っていく時間の中で、


 未だ達せず許されない「外へ出てゆくこと」(未熟さ、プレリミナリティ)にある「私たち」は乳母の話を聞かされる。つまり問うことは許されても語ることは許されず、未だ言葉を見つけられない状態である。そして狼とともにあることとは森の中にあることでありそこで火を司ること(刀自=乳母の役割)は、山姥(リミナリティ)を髣髴とさせ、神との出会いをもとめること=雨乞いを行っている様を描く。また、雨乞い、そして山姥は同時に田の神でもある。乳母はいずれ耕された土地をもたらすのか。そこには植えられた稲の実りは齎されるのか。だが、荒地は燃やされて、そこに雨が打つ。雨が打つとはリズムを知ることである。切れ目を知ることである。また、それによって、耕すことなく、既に拓くべき土地「原野」が展望されることが示唆される。ここには、「語る=言葉の境界を知りこと」を示し、言葉と言葉の境界上を移行している状態がある。そして雨が降って火が止めば、故郷だった荒地へ還ることができる。それには長い時間を要するかもしれない。なぜなら内的な叙事は、非常に長い過程を経る。それは記憶やイメージの連鎖だったり、言葉の縫い合わせにほころびを持たせられないからだ。そしてほころびのなさこそ、燃えつきて更地となった荒地として表象される。つまり秩序がないどころか、混沌さえない、荒地。つまり語り終えた沈黙。

>そして原野へ


 こで詩は転調し明かされる。焼け果てたのちの荒地には草木が芽吹く。だが、同時にそれは荒地が原野へと変貌を遂げることを意味する。原野は荒れ地と違い、穏やかで秘匿的で、触れられていないプリミティヴを保存している。つまり、語られなかった、未言語化の領域がひろがる。これは語り終えたのちだからこそ、同時に共現前する間とも沈黙ともいえる広大無辺な領域。沈黙とは何たる豊かさであろうかという、転倒、いや、真実。
それは大海原を見つめるがごとき、あるいは、大平原を見つめるがごとき眼差しにはしかと実感される話である。

>私たちの野に開かれた田畑
>夜、田畑につみあがる子供たちが降りてこない
>私たちはそしてまた出て行くでしょう
>私たちの背骨から生える
>多くの原野よ
>春の友人たちよ、
>湿地帯を越えられない多くの友人たちよ
>あなたたちが醜く引いた線も
>いつかは雪に覆われて
>この世から消えてなくなるでしょう
>だから私たちは駆けていくでしょう
>この荒野という緑の極地から
>戦うために私たちの乳母が知らない原野へと
>さようなら荒地へ逃げる春の友人たち


 耕されるべき荒野とは打って変わった、拓かれるべき原野。冒頭での乏しき詩作とは打って変わった、豊かな詩作。そこには実りがあり、田畑はとうとう定められ、我という、論理的分子が金色の穂となって収穫をもたらす時期がくるのを待つ。だが荒地が原野となり、定住する田園となったところで、それは、先の家族的叙事詩を思い出せばわかるように、この「私たち」の使命は既に決まっているのだから無意味なこと。「出ていかねばならない」のは、定住の場所、用意あされた場所であり、田畑は荒地と同じとなる。ただ秩序正しく整然と、綺麗にさえ見えてしまうだけで、変わりない乏しき詩作。言葉は新たに語られなければならない。いつかの「過去」を語り継ぐように、沈黙は再度語りを用意している。だからこそ作者はここで多くのものに語りかける。そして予言するのだ。それは断定といってもいい。叙事詩的運命には常に円環的定めが潜まれている。春が終わり、収穫も終わり、再び冬がやってくる。冬の雪が覆うのは、言葉と言葉の切れ目、凍りつく醜い言葉たち、手放しに、あるいは計画的に小賢しく言葉にされてきたものたち。「荒野という緑の極地」という一見矛盾らしく見える言葉も、最初に述べたように、放置され、野放しにされた充溢のことであり、そこでは言葉は根付かない。けれども人はそこへ逃げるかもしれない。そこでは拾い物が幾らでもあるからだ。そして春になって耕せば、安住された言葉があるかもしれないからだ。だが作者は鬱蒼と茂る言葉の中で戦う=拓くということを避けてしまう多くのものたちに呼びかけることで、反って自己の闘いを決意しているのである。
 思想のための思想があるように、詩のための詩がある。だが、ここでは、ただ目的論的な進行(言葉を荒地で拾い上げること)を示すのではなく、より言語の実存的根拠から伸びやがるものと格闘することで詩を創り上げていくと言うダイナミクスが書かれていた。その力強さは、最後の呼びかけの連続を遠望まで響かせ、個人と個人の境界線(其れは0であり、且つ際限ない境界)へ浸透することで、見事に詩的体験へと導いてくれるのではないだろうか。
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