FC2ブログ

詩の背中/る

Nizzzyさんの「天使」について、断片

http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/3.html#msg73

僕は多分もう詩を書けないかもしれない。
という予感に。

冷たいまま重なりあうよ
 左手と、右手が
生まれ変わる前の、不死鳥のように


例えば、何週間も無力にベッドの上で何も出来ずに横たわっていること。
僕だけがこの世界からスポイトのようなもので微細に吸い取られてしまうこと。

死に際のハゲワシ
ではなく
生まれ変わる前の、不死鳥

という言葉が僕より先に居て、
僕がその言葉でもって僕をもう一度編みなおす僕は
死ぬことにかわりはない、
けれど今夜は両手を
重ねて

「荒地」/安部孝作 

いかいかさん「荒地」
http://bungoku.jp/monthly/?name=%82%a2%82%a9%82%a2%82%a9#a06

 荒地では存在というが存在が無視されていく。自然とは無と等しく、無へと移ろいで行く。豊穣という自然の持つ力から見放された土地、あるいは根こそぎにされた土地。
 それは収奪されてしまったものなのか?
 あるいは、地球規模での気象現象で形成された土地なのか?
 何か大きな力にかき消れた存在の根をはることのできない固い大地。そこには何が生えようと、何が置き去りにされようと、まるで軽い、風雨にさえ触れられない、土地からは浮遊する。だからこそ荒地では存在という存在は放置されたまま、朽ちてゆかない、錆びつかない、忘却さえ、残されたまま。そこの中ではだから、生物・植物が野放しに充溢してもいるのだろう。けれどもそこで生まれるものは、やはり実りないものでしかない。この詩において「荒地」とはただ地理的な特徴から探られるものではなく、むしろ反転して、耕すべき地、果てのない抗いの地平であると思われる。すなわち、一つの詩を書く際の詩を書いているようにさえ思われる。けれども、荒地においてはやはり言葉が根付かない。まさに冒頭では乏しき詩作が示されている。

>さようなら私たちの懐かしい荒地
>実りを知らない荒地の春
>私たちの残り香だけが香る
>私たちの稲の家は
>荒地の春に燃やされて
>私たちは駆けていく
>どこまでも遠くへ


 確かにあったはずの、そして喪われた場所としての荒地は回想されることによって、荒地としての景観を喪い、実りない荒地を歩く記憶の所有者は、荒地と別れを告げることとなる。秩序なき場所の不毛のなかを漂う自己の足跡がそのまま残りながら、その足跡は秩序を作り出す痕跡にすぎなくなる。ただしそれはあくまで痕跡であって、ただ残った者、おかれたもの。深まらないもの。それでもそんな出来い合いの荒地に残される自分の存在を確かめる。春、生命の火が灯ると、乾いた荒地は燃やはじめ、灰ばかりの荒地だけが残される。そこを耕そうと(安住しようとしていた)私たちは追われるように駆けていく。荒地の充溢を無へと帰して、実りある大地を作り上げるため。果てしなく広がった荒地は、果て無く燃える。だが駆けて行っても、消え去らない痕跡。かつてはいた大地、そして戻れない予感。放置されたままなのだ、荒地においては何事も。

 そして二連目、現在。一連目における「過去」を知らない「私たち」は知りたがる、どこまでも具体的に、体験するかのように。あるいは体験したいと、せがむように。それは同時に、言葉を求めて、耐え難い「無知」から逃れるように、せがむ。

>例えば、例えば、と、
>子供の様に聞く
>それは私たちが知らなかった春
>何れ会うことになるでしょう
>あなたたち


 この詩はここで生み出されていく語りのテキストを用いて時間の感覚を押し広げる。「何れ」は、ここでは期待された時期を示し、運命的に来るべき時を予感させる。すなわち記憶が語り継がれていく、家族的叙事詩を連想させる。家族的叙事詩とは、連綿とした語りのテキストと同体でありながら、遺伝的な運命を定めていて、生成的でいながら「意識の流れ」のように遊びがない。ここには、厳しくとも認めなければならなない現実がある。それは、詩という音声=生成されるテクストが、より構築された美を求めているという象徴表現の出現を予感させ、且つ、そのような方法的な次元にとどまらず、「荒地での春=燃え始める春をしらないこと」がいつぞやの不毛な言語現象を彼方へと押しやる力を感じさせる。

>私たちの乳母は未だに
>狼の群れの中で
>炎の晩をしているのだから
>私たちは出て行ける
>そして雨が、雷が
>私たちの荒地を打つでしょう、
>雨が止まる瞬間、
>私たちは待ちましょう、
>どこまでも長い時間の中で、
>どこまでも下っていく時間の中で、


 未だ達せず許されない「外へ出てゆくこと」(未熟さ、プレリミナリティ)にある「私たち」は乳母の話を聞かされる。つまり問うことは許されても語ることは許されず、未だ言葉を見つけられない状態である。そして狼とともにあることとは森の中にあることでありそこで火を司ること(刀自=乳母の役割)は、山姥(リミナリティ)を髣髴とさせ、神との出会いをもとめること=雨乞いを行っている様を描く。また、雨乞い、そして山姥は同時に田の神でもある。乳母はいずれ耕された土地をもたらすのか。そこには植えられた稲の実りは齎されるのか。だが、荒地は燃やされて、そこに雨が打つ。雨が打つとはリズムを知ることである。切れ目を知ることである。また、それによって、耕すことなく、既に拓くべき土地「原野」が展望されることが示唆される。ここには、「語る=言葉の境界を知りこと」を示し、言葉と言葉の境界上を移行している状態がある。そして雨が降って火が止めば、故郷だった荒地へ還ることができる。それには長い時間を要するかもしれない。なぜなら内的な叙事は、非常に長い過程を経る。それは記憶やイメージの連鎖だったり、言葉の縫い合わせにほころびを持たせられないからだ。そしてほころびのなさこそ、燃えつきて更地となった荒地として表象される。つまり秩序がないどころか、混沌さえない、荒地。つまり語り終えた沈黙。

>そして原野へ


 こで詩は転調し明かされる。焼け果てたのちの荒地には草木が芽吹く。だが、同時にそれは荒地が原野へと変貌を遂げることを意味する。原野は荒れ地と違い、穏やかで秘匿的で、触れられていないプリミティヴを保存している。つまり、語られなかった、未言語化の領域がひろがる。これは語り終えたのちだからこそ、同時に共現前する間とも沈黙ともいえる広大無辺な領域。沈黙とは何たる豊かさであろうかという、転倒、いや、真実。
それは大海原を見つめるがごとき、あるいは、大平原を見つめるがごとき眼差しにはしかと実感される話である。

>私たちの野に開かれた田畑
>夜、田畑につみあがる子供たちが降りてこない
>私たちはそしてまた出て行くでしょう
>私たちの背骨から生える
>多くの原野よ
>春の友人たちよ、
>湿地帯を越えられない多くの友人たちよ
>あなたたちが醜く引いた線も
>いつかは雪に覆われて
>この世から消えてなくなるでしょう
>だから私たちは駆けていくでしょう
>この荒野という緑の極地から
>戦うために私たちの乳母が知らない原野へと
>さようなら荒地へ逃げる春の友人たち


 耕されるべき荒野とは打って変わった、拓かれるべき原野。冒頭での乏しき詩作とは打って変わった、豊かな詩作。そこには実りがあり、田畑はとうとう定められ、我という、論理的分子が金色の穂となって収穫をもたらす時期がくるのを待つ。だが荒地が原野となり、定住する田園となったところで、それは、先の家族的叙事詩を思い出せばわかるように、この「私たち」の使命は既に決まっているのだから無意味なこと。「出ていかねばならない」のは、定住の場所、用意あされた場所であり、田畑は荒地と同じとなる。ただ秩序正しく整然と、綺麗にさえ見えてしまうだけで、変わりない乏しき詩作。言葉は新たに語られなければならない。いつかの「過去」を語り継ぐように、沈黙は再度語りを用意している。だからこそ作者はここで多くのものに語りかける。そして予言するのだ。それは断定といってもいい。叙事詩的運命には常に円環的定めが潜まれている。春が終わり、収穫も終わり、再び冬がやってくる。冬の雪が覆うのは、言葉と言葉の切れ目、凍りつく醜い言葉たち、手放しに、あるいは計画的に小賢しく言葉にされてきたものたち。「荒野という緑の極地」という一見矛盾らしく見える言葉も、最初に述べたように、放置され、野放しにされた充溢のことであり、そこでは言葉は根付かない。けれども人はそこへ逃げるかもしれない。そこでは拾い物が幾らでもあるからだ。そして春になって耕せば、安住された言葉があるかもしれないからだ。だが作者は鬱蒼と茂る言葉の中で戦う=拓くということを避けてしまう多くのものたちに呼びかけることで、反って自己の闘いを決意しているのである。
 思想のための思想があるように、詩のための詩がある。だが、ここでは、ただ目的論的な進行(言葉を荒地で拾い上げること)を示すのではなく、より言語の実存的根拠から伸びやがるものと格闘することで詩を創り上げていくと言うダイナミクスが書かれていた。その力強さは、最後の呼びかけの連続を遠望まで響かせ、個人と個人の境界線(其れは0であり、且つ際限ない境界)へ浸透することで、見事に詩的体験へと導いてくれるのではないだろうか。

きみはゼロ年代最高のカルトホラー『バーサーカー』を見たか/古月

いきなりだが、あなたは『バーサーカー』という映画をご存知だろうか。

大半の方は、きっとご存知ないだろうし、これから死ぬまで観ることもないと思う。
こんなマイナーホラーを知っているのは、よほどの熱心なホラーファンか、数奇の運命の悪戯によって不幸にもレンタルしてしまった可哀想な人くらいであろう。
だが、筆者は自信を持って、このマイナーホラー映画を、ゼロ年代最高のカルトホラーに推薦したい。

『バーサーカー』。
製作・監督・脚本はガブリエル・バータロス。
2003年のアメリカ映画であり、日本ではアルバトロス・コアというレーベルからDVDが発売・レンタルされている。
アルバトロス。多少でも映画に詳しい人なら、この名前を聞いただけでピンと来るだろう。そう、あのアルバトロスである。
クズ映画ばかりをリリースすることに定評があり、ホラー映画と間違えて買い付けた『アメリ』が異例の大ヒットを飛ばして自社ビルが建ったという逸話で有名なアルバトロスだ。
そんなクズ映画専門メーカーから出ている映画がゼロ年代最高のカルトホラー映画であるはずがない……もしそんな風に思われる方がおられるとすれば、この『バーサーカー』という映画こそがきっと、あなたの認識を覆す、記念すべき最初の作品になるはずだ。
特に、トビー・フーパー、フランク・ヘネンロッター、スチュワート・ゴードンといった名前にピンと来るような人なら、間違いなくハズレることはないだろう。

今回、この『バーサーカー』の批評を書くに当たり、どういうアプローチから攻めるのが一番良いのか、かなり悩んだ。
『バーサーカー』は、けしてメジャーな映画ではない。むしろ、マイナーの中のマイナーとでもいうべき部類だろう。そのため、いつでも、どこでも、誰にでも、たやすく視聴できるとは、ちょっと言いにくい。
それに、こうした批評を通じていくら筆者が「面白いので見てください!」と力説したところで、本当に「それならば見てみようか」と思って実行に移してくれるのは、せいぜい百万人にひとりくらいのものだろう。
とすれば、「読者が批評対象を視聴済み」という前提で批評を書くことは、あまりにも意味がないような気がする。

……とまあ、そういうわけで、ちょっと「批評」という枠からは逸れるかもしれないが、今回は思い切って、あらすじをほとんど書いてしまうことにした。
そして、あらすじを追う過程で、B級映画の面白さ、それも特にクズホラーの面白さを、全力で伝えていけたらいいな、と思ったりしている。

なので、現時点でこの映画に多少なりとも興味を持った読者がおられたら、迷わず読むのをやめていただきたい。
そして、いますぐレンタルビデオ店に直行して、『バーサーカー』を借りてきて欲しい。なかったらツ○ヤオンラインとかで探せ!
もっとも、ネタバレをされたところで著しく興を殺ぐような映画でもないだろと言われれば、まあその点は否定できないのだが、いまだ『バーサーカー』を観たことのない「幸福な観客」であるあなたには、できれば予備知識のないまっさらな状態で、この奇跡的な傑作を楽しんでほしいのだ。

特に作品のラスト3分半。これは筆者に言わせれば、まさしく必見である。
おそらく映画史上初の試みであり、いまのところ唯一無二の存在ではないかと思っている。(他に例があれば教えてね)
このラスト3分半にはついては、そうとうホラー慣れしているはずの筆者でさえ、いい年してけっこうなトラウマを抱えてしまった。
なので、できればあまり、事前情報を仕入れずに見てほしいと思う。いいからさっさとツ○ヤに行け!

……というわけで、さっそく本論に入ろうと思う。
注意点としては、まず、ネタバレには一切配慮していない。
次に、あらすじを追うだけなら楽な仕事だろうと思って始めた作業が、なぜか最終的に徹夜になって、原稿用紙55枚分という、ちょっとした分量になってしまった。なので、最後まで読むのは限りなく苦行に近いと思われる。(つまり、無理して読まなくていいです)
以上のことをよく理解した上で、それでも読んでやってもいいぞという人だけ、どうか続きを読み進めてほしい。
なんていうか、その、すいません。がんばってください。

■ オープニング~暴走車

どこかの解体工場の片隅、そこから、この映画は始まる。
夜更けである。
解体業者らしきオッサンがものすごく素人臭い手つきで、コテを使って皮膚に焼印を押している。
「 S D 」
何かを予感させる、意味深な導入だ。SDとはいったいなんなのか。
誰かのイニシャルだろうか、それとももっと別の意味が隠されているのか……。
そんなことをボンヤリ考えていると、その「S」と「D」を頭文字にして、「SKINNED DEEP」のタイトルが浮かび上がった。
単なるオープニングクレジットかよ!
もうこの時点で最低、失敗感漂いまくりである。テンションダダ下がりだ。安っぽいにも程がある。
だいたい2003年の映画なのに、なんで画面が1980年代みたいなんだよ!
それもグラインドハウスなんて上等なものじゃない、これは単なるトラッシュである。

さて、話は変わって場面も変わって、夜である。雨の中を、一台の車が走っている。
ホラー映画のオープニングで車と言えば、これはティーンエイジャー惨殺から始まる可能性が高い。
こうなると場合によってはカーセックスや全裸での水浴びなどのサービスシーンもアリである。
世の中のボンクラどもも、これには心の中でガッツポーズ、さぞかし胸をときめかせて観ているに違いない。
しかも、路肩にはなんと水牛の頭蓋骨が転がっている! これは『悪魔のいけにえ』の乾燥したアルマジロを思わせるナイスオマージュだ。正直言ってニヤニヤが止まらない。

だが、そんな観客の思惑を打ち砕くように、運転席にはオッサンがいた。しかもさっきの焼印のオッサンである。
オッサンかよ! あなたがたの心が急速に萎えていく気持ちも分からんでもないが、まあ我慢してほしい。このオッサンも、どうせあと少しの命なのだから。
そんな観客の心中など知る由もなく、オッサンはビールなんか飲みながらカーステレオをつけて、すっかりご機嫌である。
すると、あたりが暗くなり、突如として霧が立ちこめ始めた。
厳密には霧なのか排気ガスなのか分かりにくいが、総合的に判断して霧としておく。
さて、霧と言えばホラー。ホラーと言えば霧だ。ベタベタだが、分かりやすい惨劇の前兆、「今から殺すよ」のサインである。
そして、霧の中から現われる一台の暴走ピックアップトラック! これには嫌が応にも期待が高まる。

ここでピックアップトラックについて、少しだけ補足説明をしておきたい。
なぜピックアップトラックで期待が高まるのか? それは「ピックアップトラックといえば食人一家」という、ある種のお約束があるからだ。
さっきの水牛の頭蓋骨もそうだが、このピックアップトラックを見た段階で、「これは食人一家の映画だ」とピンと来るのがホラー映画ファンというものである。
適当なことを言うなと怒られそうだが、これは本当だから仕方ない。製作者側の出すサインを正しく拾っていくと、それ以外の結論には至れないのだ。
ところで食人一家というのは何なのかと言えば、これは読んで字の如く、「人を食って生きている一家」である。
分かりやすく言えば、山賊の現代版みたいなものだ。
道行く旅人を襲撃して金品を奪い、ついでにその肉を食料にするという、人間でありながら食物連鎖でいえば人間のちょっとだけ上という存在である。ざっくばらんに言えば、頭がスポンジ状になった家族経営の強盗集団かな。
その食人一家がなぜピックアップトラック必須なのかと言えば、これは簡単な話で、現代人の移動手段というのは圧倒的に自動車だからである。
手順はこうだ。旅人が車で通りかかるのを待つ → タイヤをパンクさせる → 襲う → 車を片づける。
そう、車は片づけなければならないのだ。第一に犯罪の証拠であるし、第二にそれがカッコいい車なら欲しい。実に理にかなっている。
だからこそのピックアップトラックというわけなのだ。説明終わり。

話を戻す。
で、そのピックアップトラックが、突然オッサンの車に後ろから追突する。
オッサンがびっくりしていると、こんどは猛スピードで併走してきて、こんどは横から攻撃してくる。
見れば、ピックアップトラックの荷台には、ロングコートの大男がいる。見るからに(頭が)ヤバそうなやつである。
何をする気だ、と思って見ていると、大男はおもむろに鉄のアンカーを運転席にぶち込んだ。
それがオッサンの太ももに食い込む! 痛い! これにはさすがのオッサンも大絶叫である。
必然的にオッサンは運転をあやまり車はドカン!クラッシュしてしまう。
映像の安さにちょっと問題があるが、ここまでまずまずの滑り出しといえよう。

……と、そこに突如、謎の映像が挿入される。
マッチョマンの、油でテカったムキムキボディのドアップである。

画面が事故車に戻る。
さっきのは一体なんだったのか……? もしかしてサブリミナル効果? それとも……?
戸惑いを隠せない観客を容赦なく置き去りにして、カメラは怪我をして苦しむオッサンを映すのだった。
そこに近づいていく、ロングコートの男。その顔には、金属製のゴーグルと、鋭いノコギリのようなアゴがついていた。
恐怖に怯え、許しを請うオッサン。だが、無残にも振り下ろされる鉄の刃!
……とまあ、画面では一応ショックシーンが展開されているわけだが、見ているこっちとしては、さっきの謎のマッチョマンが気になって集中できない……。
これは不可抗力というやつである。それくらい強烈なインパクトのマッチョだったということだ。
しかし、まだまだこの程度で驚いてはいけない。
この程度のバカ演出は、『バーサーカー』においては、ぜんぜん序の口なのだ。
この先もっと狂った場面が見られるので、乞うご期待と言ったところである。

ひとまずマッチョのことは忘れることにして、先を続ける。
オッサンを手にかけたロングコートの男は、今度は鉄パイプでオッサンの車のガラスというガラスを割り始める。
それが終わったらステレオをぶん殴って取り外し、ついでボンネット、ヘッドライトと次々に車を破壊していく。
この一連のシークエンスは「だるい」の一言。たいして面白くもないし、何の意味もない。たぶん「なんとなく」撮ったのだろう。
だが、しばらく観ていると、だんだんこの無意味さが面白いような気がしてくるから不思議である。いわば『ゼイリブ』のケンカみたいなものだ。

とまあ、そんなわけでいろいろあってオッサンは死に、車は大破。ロングコートの男の顔見せは、わりと消化不良のまま終わった。
ここまでの展開で一つだけ褒められる箇所があるとすれば、それは、これが『悪魔のいけにえ2』へのオマージュだろう、ということである。
世の中には『悪魔のいけにえ』に死ぬほどの影響を受けて、「ぼくもわたしもこんな映画が撮りたい!」と思って実際に撮ってしまうアグレッシブなボンクラがいる。それも、意外だろうが、けっこうな数いる。
彼等は一様にオリジナルである一作目をリスペクトし、下敷きにする。なぜって、それは一作目が他の追随を許さないレベルの傑作だからだ。それはけして責められることではない。
しかし、この『バーサーカー』は、そこであえて『悪魔のいけにえ2』を選んだ! これは偉い! 素晴らしい! とても価値のある挑戦であると、筆者は賞賛したい。
まあ、実はこの映画の監督、『悪魔のいけにえ2』に特殊メイクとして参加しているので、そのへんのアレかな……と思わなくもないが。そんなことは些細なことでしかない。とにかく問題は愛なのである。
この世界に一人でも、こういう限りなくどうでもいいことについて感動できる人間(俺とか)がいるなら、それはそれで価値があるはずだ。
そうとでも思わないとやってられない。『悪魔のいけにえ2』最高!

■ ロックウェル一家

場面はうって変わって、真昼間である。
山間の道を行く、一台の乗用車。その車内では、ハンディカムビデオが回っている。
ハンディカムを向けられたことへの反応を通して登場人物の性格を紹介するというのは、手法としてはありがちだが、なかなか上手いやり方である。
彼らはロックウェル一家、平凡なアメリカの四人家族である。

まず、運転席と助手席には、父親のフィルと母親のグロリア。
ふたりはおおらかな性格でのんびり屋、いつもニコニコしているが、残念なことにネジが2,3本ほど抜けている。
その性善説の国からやってきたとしか思えないユルユルな性格は、きっとこれまでの人生が順風満帆すぎて仕方なかったか、あるいは逆に辛い経験を死ぬほどしてきたかのどちらかなのだろうことを物語っていた。
一方、その子供である、姉のティナと弟のマシュー。
彼らはフィルとグロリアとは違い、全く普通の子供である。イマドキっぽく適度に冷めていて、思春期っぽく親がちょっとウザい感じだ。カメラを向けられるのもウザい。

一家はアメリカを横断する旅の途中で、古きよき暮らしを守っているという街を観光するために、人里離れた荒野をやってきた。だが、どう考えても楽しんでるのは両親だけである。
子供というのは、ある時期からピタリと家族旅行が嫌になるものだ。ティナとマシューもそんな感じで、浮かれ気分の両親とは対照的に、ちょっとトーン低めである。
だが、露骨に反抗したり、親を嫌ったりすることはしない。けっこう良い子なのだった。
このくらいの説明で、ロックウェル一家のことは分かってくれただろうか。まあ、特に分からなくても支障はないので(すぐ死ぬから)、次に行きたいと思う。

場面が変わり、一家の車が事故現場を通りかかる。
なにやら不穏な雰囲気である。父親は保安官に「何があったのか」と尋ねるが、保安官は「ああ」しか言わない。完全無視の姿勢か、もしくは頭がおかしい。
もう一人のいかにも知恵の足りなそうな男は、ひたすら血のついた雑巾を絞ってる。THE・田舎、という感じだ。
いやな予感を漂わせつつもしばらく走っていると、突然一家の車に、道路のど真ん中でトラブルが発生する。
どうやらパンクらしい。路肩に寄せる父親。確認すると、やっぱりパンクであった。
「助けを呼んでくる」という父親のセリフを聞きながら、何者かが、道路に仕掛けたトゲトゲのついたトラップを回収していく……。
出たよ。出ましたよ。これこそ田舎ホラーでおなじみのアレ、名前は知らないが、車をパンクさせるためのアレである。
でも、車がパンクした場所って、その位置よりもっともっと手前なんですけど!? 
だが、そんなことは気にしたら負けだ。この映画を作った奴らは、確実にそんな細かいことは考えていないのだから。

■ 奇妙な家

助けを呼びに言った父親は、近所に一件の店を発見する。
無駄を省いたスピーディーな展開だが、ご都合主義とか言ってはいけない。
この店の近くで故障するように罠を仕掛けられたのだから、これは当然の帰結というものである。B級映画だからって、なんでもかんでも貶めていいというわけではないのだ。

その店は、気品のある優しそうな老婦人が経営する雑貨店だった。
老婦人は「今日は修理工場は閉まっているし、うちで食事でもどう?」と彼に持ちかけた。
人を疑うことを知らない父親は、素直に彼女の申し出に甘えることにした。ニヤリと笑う老婦人。
これが地獄の始まりであった。

彼女が教えてくれたルートに従い、妻と子供たちを連れて彼女の家を訪ねる父親。
なんかわけわからん崖みたいな道を降りて辿りついた先は、先ほどの小奇麗な雑貨店とは全く違う、廃屋みたいなボロボロの家だった。
この時点でヤバイ臭プンプンなのだが、父親も母親もアホだから、この期に及んでまだ「帰ったら失礼に当たる」とか考えてる。完全に危機感ゼロである。アメリカの田舎が食人族のメッカだなんてことは、いまどき子供でも知っているというのに。

家の中に入ると、そこは、あのゴミクズみたいな家の外見と比較しても、さらに数倍ゴミでクズな、あからさまなキ○ガイの巣窟だった。
廃材を加工して作られたジャンクアートや、壁に飾られた大量のノコギリ類。ふと覗き込んだテレビの裏側には、電気のコードがグチャグチャに繋ぎなおされていて、その先は人形の首に接続されていた。
壁には行方不明者のポスターを剥がした後があり、テーブルには新聞紙がベタベタ貼られている。イスの肘掛には同じように、紙幣が大量に貼り付けられていた。
部屋を飾る奇怪なイルミネーション、天井からぶら下がった大量のガラクタ。これは完全にアウトである。
この時点で全力で逃げるべきだし、この家族もそろそろちょっとヤバいことに気が付きはじめているはずなのだが、「失礼になってはいけない」という思いがそれを上回るのか、逃げる機会を逃してしまう。

招待されるがままに食卓に着くと、そこには老婦人以外に、三人の家族がいた。
ハッキリ言って、どいつもこいつも見るからに異常な風貌である。もしこれが異常でないとしたら、それはきっとドブに落ちた後にさらに下水道に落ちたハロウィン衣装とかだろう。
このゴミ溜めのような家の中で、老婦人のこざっぱりした雰囲気だけが、妙に浮いていた。
だが、その老婦人は老婦人で、だんだん顔つきがヤバくなってきていた。最初の優しそうな感じが抜け落ちて、どう見てもイッてしまっている。
平均的な狂人は精神が180度くらい振り切れているから一目でそれとわかるが、この老婦人は例えるなら、350度くらい振り切れている。ほぼ一周して、ついに表面上は一般人と区別がつかないレベルにまで達している。とにかく何が言いたいかというと、こいつはナチュラルに狂っているのだった。

老婦人、いや、もう狂ったババアでいいだろう、そのババアは名前をグラニーといった。
グラニーは、ロックウェル一家に自分の家族を紹介していく。
まずは「外科医」。
名前が外科医と言うのもおかしいし、どうみても外科医ではないのだが、とにかく外科医なのだから仕方ない。
ガタイのいい大男で、顔は灰色で、今にも死にそうな老人のようだった。……というか、どうみても「老人の顔の皮」を、無造作に顔に貼り付けているだけである。すがすがしいまでに直球な、レザーフェイスへのオマージュだ。
次に「プレート」。
真っ白な服を着た小人症の男である。なぜか背中に白い大皿を背負っている。なんだか必死で発作をこらえているような感じで、プルプル震えている。
そして「ブレイン」。
彼は、この家族の中で唯一まともな人間性の持ち主だったが、服装は残念なことに裸にサロペットだった。しかも何故か頭に、顔の四倍くらいデカい袋をかぶっている。超デカ頭である。遠くから見ると、頭部がハートマークみたいに見えた。
揃いも揃ってアレである。

家族の紹介も終わり、いよいよ食事となったわけだが、用意された食事は、ダンボールの切れ端の上に載せられた「肉片」だった。
「肉片」でなければ、「血まみれの謎の刺身」だろうか。どのみち、これは料理ですらない。
補足しておくが、別にこの家には皿がないとか、そういうわけではない。壁には皿を並べるための棚があって、いろんな大皿がたくさん並んでいる。
なのに、なぜか食事はオン・ザ・ダンボールなのである。
常識的に考えれば、こんなものを口にできるはずがない。だが、善良すぎてそろそろイライラするレベルの父親が、なんとその肉片をためらわずに口に運ぶ!
それをみて露骨に嫌な顔をする、娘のティナ。 
「菜食主義者なの」
絶対に食わない、これだけは譲れないという強い姿勢の表れである。
「だからそんなに青白いのね」
グラニーのババアがそう言うと、そこにマイクを通して、部屋に何者かの声が響いた。
「青白いのはどいつだ?」
「青白いのはお嬢ちゃんだけよ」
答えるババア。
露骨に雰囲気の悪くなった食卓の空気を少しでも良くしようと、母親がニコニコ顔でティナにカメラを向ける。
「笑って笑って~」と言うが、ティナは笑えるわけもない。
母親はそのままシャッターをきり続け、つい勢いで、外科医に向けてフラッシュを焚いてしまう。
カシャ!
それが失敗だった。
フラッシュの光に激昂した外科医は、おもむろに自分の顔に貼り付けていた老人の人皮マスクを取り、それを母親に投げつけた。
その下から出てきた顔は、爛れた顔に金属製のゴーグル、そしてノコギリのようなアゴ。紛れもなく、冒頭でオッサンの自動車を襲った、あのロングコートの殺人鬼だった。
ロングコートの殺人鬼こと外科医は、懐から刃物を取りだして、母親の首をスパッと切ってしまう。勢い良く血が噴き出す。完全に即死である。
食卓に悲鳴が響き、たちまち混乱が起こった。
それをきっかけに、とうとう何かをこらえきれなくなったプレートが大爆発、大ハッスルで暴れだした。
さっきから彼が何かを懸命にこらえていたのは、皿が投げたくて投げたくて仕方なかったのだ。
狂ったように、台所中の皿という皿をフリスビーのように投げていくプレート。

このプレートという小人。とにかく皿が大好きなのである。だから名前もプレートなのだろう。
邪悪な笑みを浮かべながら、とにかく皿をぶんぶん投げまくる。悲鳴と皿の割れる音の大合奏で、食卓はムチャクチャである。
その混乱のさなか、父親もまた、外科医の振るった刃物によって首を切られてしまった。
開始早々、夫婦揃ってあっけなく退場である。

両親をいともアッサリと殺されてしまったティナと弟のマシューは、施錠された窓をブッ壊して逃走する。
だが、まだまだ地獄は始まったばかりなのであった。

■ 逃げるティナ

緊迫感のない音楽が鳴り響く中、ティナとマシューの二人は、林のなかを必死で逃げていた。画面は意味なく青白い。ほんのりアート風味である。
それを追う外科医とプレート。外科医の視点から見たと思われる、プレデターもどきみたいなサイボーグ風の映像がダサくて妙に微笑ましい。
逃げるほうも追うほうも妙にのっそりのっそりしてるわけだが、森は木の根っことか出てるし、躓いたら大変である。マスクをつけての全力疾走は危ないのだろう。ここは突っ込まないのが優しさというものかもしれない。
そうこうしているうちに、ティナとマシューは行き止まり?みたいなところに追い詰められてしまった。
ちなみに、別に地理的には行き止まってもいないし、疲れてもう走れないわけでもない。映画の展開上、そろそろ話を進めなければならない、という感じの止まり方であった。
「バケモノ! 何の恨みがあるのよ!」
ヤケクソで叫ぶティナだったが、外科医は全く無視である。そもそもコイツ、喋れるのかすら怪しい。
そこへ、グラニー(ババア)とブレインが小走りで到着する。
全力で走っていた先行組に、ほぼタイムラグなしで小走りで追いつくとは、恐るべきやつらである。
「彼女だけは殺さないで。ぼくの物にしたいんだ」
ブレインはグラニーのババアにそう懇願する。こいつは、ティナを自分のペットとして飼うつもりなのだ。
「何が目的なんだよ」
微妙に大根な演技で、マシューが一家に問いかけた。
すると、返答代わりに外科医が、刃物をブン!と、マシューの顔の前で振った。
「ははっ、外れだ」
だが、余裕の笑みもつかの間、次の瞬間、マシューの身体が縦一文字に裂け、きれいに真っ二つになってしまった!
とうとうティナの家族は、彼女以外みんな殺されてしまったのだった。

一方、ガキなんかはどうでもいいとばかりに、ブレインは、とにかくティナを飼いたいとババアに懇願する。
「自分で世話するから~」って、まるで子供が亀を飼うようなノリだ。
仕方なくババアはそれを了承する。
ティナに近づくブレイン。おもむろに頭にかぶった布袋を取ると、その下には、頭部の4倍ほどもある、巨大な脳みそが隠れていた。
布袋を頭に被せられて殴られたティナは、意識を失う。
どうでもいいが、頭に袋を被せるのと殴るのは順序が逆ではないか?と思うのだが、おそらく撮影上の都合なのだろう。

ティナが目を覚ますと、そこは部屋の中だった。
壁も、窓も、ドアも、全てが新聞紙で多い尽くされた、不気味な小部屋。そこにティナは監禁されていた。こんなところに閉じ込められたら、ハッキリ言って発狂ものである。
ティナは壁を壊して逃げようと試みるが、鉄格子がはまっていて出られない。
そこにブレインが食事を持ってくる。
「スープとお金だ」
目の前に差し出されたのは、乱雑に束ねられた札束と、泥水のようなスープだった。
女心を掴むには、カネとメシである。このサロペット男、なかなか分かっている。ちなみにこいつは顔もそんなに悪くないのだが、不気味に肥大した脳のせいで、何をどうがんばっても全て台無しなのだった。しかも、スープには人間の指が浮かんでいる始末である。これではお話にならない。
しかもティナにしてみれば、彼は家族を殺したバケモノ一家の一員なのだ。どう考えても心を開くわけがなかった。

「バイクに乗ろう?」とティナを誘うブレイン。
こいつヘナチョコな外見のくせにバイクなんか乗るのかよ! なかなか驚きである。
だが、「わたしは家族を殺されたのよ!」とティナは拒否する。当然である。
「父親を殺された人間の気持ちが分かる?」
「父親の話はよせ!」
ティナの質問に、なぜかキレるブレイン。
だが、すぐに怒鳴ったことを詫びると、「一時間後に来るよ」と言い残して、ブレインは寂しそうに部屋を出て行った。
それは完全に恋であった。
まあそれはともかく、キモ男なんて最初から眼中にないティナは、とにかく脱出することだけを考えていた。
根気良く、部屋の床を調べていると、なんと地下へと通じる扉が見つかった。
どこに通じているにせよ、この部屋にいるよりはマシである。
ティナは意を決して、地下へと降りていくのだった。

地下には四つんばいでやっと通れるくらいの、板張りの狭い通路があった。
感じとしては『ダイ・ハード』の通風孔を思い浮かべてもらえればいいのだが、それにしては色とりどりのイルミネーションで飾られていたりする。
普段から通路として使われているのだろうか? 全く意味が分からないが、このあたりの造形は恐らく『悪魔のいけにえ2』の遊園地地下のオマージュなので全て良しとする。
出口を求めてとにかく先へ先へと進んでいくティナだったが、突如、足場が崩れて地下深くへ落下してしまう。
また、これがえらいことになっていて、ホントに「どんだけ落ちるんだよ!」っていうくらい落ちる。アホみたいに落ちる。
高所から落ちても死なないティナの不死身さに乾杯である。
落ちた先は、どうやら死体置き場のようだった。
お約束のようにミイラの眼窩からはアメリカンサイズのビッグ蛆虫が飛び出し、辺りにはドクロが積み上げられていた。

そして、そこにはなぜかテレビがあった。
画面には、ティナの家族が撮影していた、あのホームビデオの映像が映し出されている。
自転車を修理する、平和で退屈な光景……。こんなあたりまえの日常は、もう二度と戻ってこないのだ。
それを見て号泣するティナ。
ツッコミどころ満載の名シーンだが、ぶっちゃけ胸が痛んだのは内緒である。
ここまでで、やっと32分!長い!
あと66分!

■ バイク野郎

さて、ティナの家族は全員殺され、あとはティナだけしか残っていないわけだが、「もしかしてここからの脱出劇だけで60分やる気か!?」と思ったらさにあらず。
新キャラのバイカー軍団が登場である。
しかも、メンバー全員が高齢者という、ハードロック老人会みたいな爺婆バイカー軍団だった。
だが、彼らの不幸は、「ちょっと休憩していこうぜ!」と立ち寄った店がババアの雑貨店だったことである。
飛んで火にいる夏の虫とばかりに、獲物をもてなすババア、もといグラニー。
ジジイのひとりが年甲斐もなくグラニーに色目を使い、ちょっと良い雰囲気になる。
休憩を終えたバイカーたちは出発するが、グラニーババアに惚れたジジイだけは、「俺はここでコーヒーを楽しんでいくよ」などとほざき、一人残ることに。
本人は気付いていないが、完全に大ピンチである。
一方その頃、ティナはまだ暗い穴の中でホームビデオを見ていた。だが、いつまでもこうしてはいられない。
ホームビデオの中の両親に別れを告げると、ティナは地上を目指すのだった。ていうかさっきも書いたけど、どんだけ深いんだよ、この穴……。
地上を目指す途中で、ティナは奇怪なアートを発見する。その中には、なんと父親の生首もあった。思わず嘔吐するティナ。
ここのカメラアングルはなかなかに凝っているので注目である。
穴を登っていくティナを下から撮影するカメラのレンズを、ティナの吐いたゲロが直撃! ほんま、なんちゅうセンスやねんと。

それはともかく、地下通路を抜けて、ティナはようやく地上に出ることに成功した。
辺りを見回すと、そこは雑貨店の中だった。
なんということだろう、果たしてティナの命懸けの脱出は見事に果たされたのだ。
衝撃の展開に、見ているこっちも思わず手に汗握ってしまう。
こうしてキ○ガイ一家の支配下から逃れたティナは、一般人と思しきバイカーのジジイの前へと飛び出し、「助けて! この人の家族は全員殺人鬼なの!化け物ばかりよ!」と訴える。
が、案の定そんなものは相手にされない。哀しいかな、ジジイはババアにホの字なのであった。まあ、ホの字じゃなくても普通は荒唐無稽すぎて信じないだろうが……。
それを見たババアはといえば、慌てず騒がず冷静に対処。さすがに堂に入ったものである。
コンビニの通報ボタンみたいなのをポチッと押すと、秘密のサインを聞いた殺人鬼一家が緊急出動!
瞬く間にバイカーのジジイも外科医の凶刃に倒れてしまい、地下の死体部屋に投げ込まれてしまった(たぶんさっきティナが落ちた場所だろう)。
ようやく自由を掴みかけたティナも、ふたたび囚われの身になってしまった。

ティナを逃がしたことでグラニーのババアに叱られるブレイン。
だが、ババアに「ティナを家族の一員にしてもいい」と言われて上機嫌に。
首輪をつけられたティナは、なぜか彼のバイクに縛り付けられていっしょに湖へとピクニックに行く。もとい、連行されるのであった。

■ ピクニック

湖に到着するティナとブレイン。
ネイティブアメリカンの羽飾りを頭につけ、ハーモニカを吹くブレイン。ちょっとした恋人きどりである。
そろそろと身体に触れようとするブレインに、すかさず身を引いて拒否るティナ。
「ねえ、ブレイン」
「ぼくの名前はブライアンだ」
どうやらこの脳肥大男は、自分の外見にコンプレックスがあるらしかった。
そして、おそらくは自分の家族が異常だということも正しく認識しているし、会話も成立する。
ティナは「こいつなら説得できる」と思ったのか、それとも「彼だけは善人だ」と思ったのかは定かではないが、とにかくブレインを説得することにした。

「ねえ、ブライアン、私を逃がして」
「どこへ? 君はもう僕たちの家族なんだよ?」
やはりそう簡単にはいかないようだが、説得可能そうな雰囲気は漂っている。
具体的に言えば、惚れた弱み的な弱点をうまく突けば、成功率が高そうに思えた。
「いっしょに逃げましょう。わたしが世話するわ」
そう説得するティナだったが、
「無理なんだ。クリエイターが許さないよ」
ブレインは哀しそうに言った。クリエイター? 誰それ? 怪訝に思うティナ(と観客)。
ティナにオートバイのエンジンの掛け方を教えてくれるブレイン。
聞けば、どうやらクリエイターとは、彼ら家族の創造主であるらしい。
すでに見た目で出オチ気味にバレているが、彼ら一家はクリエイターによって作られた人造人間なのだった。
「僕をもっとまともに作ってほしかった・・・。ごく普通の生活をしたかった・・・」
遠い目をして呟くブレイン。
「自分が普通だったら・・・町に溶け込めるだろ?」
哀愁漂う名シーンである。
ぽわわわ・・・ブレインの顔のアップから、上空へとパンするカメラ。
そして、ここからブレインの妄想劇場が始まる。
はたして彼の憧れる、ごく普通の生活とはなんなのか……。
ポップでファンキーな音楽が流れ始め、場面は一転して、真昼間の大都会である。
人ごみの中を、遠くから誰かが走ってくる。
それは誰あろう、大きく手をひろげて満面の笑みを浮かべるブレインだった。
これだけなら、けっこう良いシーンかもしれない。
だが、残念なことに、彼はなぜか全裸だった。
全裸というのは言うまでもなく、フルヌード、素っ裸のことである。
馬鹿でかい脳のかぶりものをかぶった気持ち悪い男が、全裸で白昼の雑踏を走る!
全裸なので、もちろんイチモツも隠していない。ビビってよける通行人! 完全にゲリラ撮影である。
ブレインがこんな妄想をしているなんて、知らぬはティナばかりなりだった。
どんなにまともに見えても、やはりこいつも狂ってるんだなあ……と、なんだかシミジミとしてしまうのであった。

■ 家族の一員

さて、場面は変わって夜である。
爺さんバイカーたちが、いつまでたっても追いついてこないジジイを心配して、様子を見に雑貨店に戻ってくる。
そこには殺されたジジイの、血まみれのジャケットが落ちていた。
グラニーのババアもこれくらい片づければいいのに……。ほんと愚かなババアである。
「どうすればいいんだ……」
途方に暮れるジジイに、もうひとりのジジイが檄を飛ばす。
「メソメソすんな。復讐してやる!」
こうして、爺さん婆さんバイカー軍団vs食人一家の、因縁の戦いの幕が切って落とされるのであった。

ティナが目覚めると、また新聞に覆われた小部屋の中だった。
ふと気がつくと、窓の外から声が聞こえてきた。死んだ父親の声だ。見ると、死んだはずの家族が、庭でハンバーグを焼いている。
ティナは必死で呼びかけるが、誰も気付いてくれない。
ティナのいない家庭団欒の傍らで、風車がくるくると回り続けている。やがて部屋に真っ白なガスが立ち込め……。
そこでティナはふたたび目覚めた。
すべては悪い夢だったのだ。
鉄格子から外を覗くと、庭に保安官が来て、ババアとなにか話している。
それにしても、ずいぶん親しげな様子である。
ティナは必死に叫ぶが、残念ながら、またしてもその声は届かなかった。
ババアがニヤリとこっちを見る。

ティナが部屋で途方に暮れていると、そこにまたしてもババアが登場。しかも、いつもと違って、なぜか妙にめかしこんでいる。
続けて、外科医とプレートが部屋に入ってくる。何事かと思っていると、その手には純白の(薄汚れた)ウェディングドレスが握られていた。
「これであなたも家族の一員よ」
押さえつけられ、むりやりウェディングドレスを着させられるティナ。
そこに、裸サロペットの上に黒の背広という珍妙な服装のブレインがやってくる。
真っ赤な口紅をグチャグチャとティナの顔に塗りつけ、ダブルグッドのジェスチャーでご満悦のブレイン。
ティナは、ピックアップトラックのボンネットの先に縛り付けられ、そのままどこかへと連れ去られるのだった。
果たしてティナの運命やいかに……。

■ チキンラン

舞台は変わり、荒野である。
どこまでも続く直線道路をぶっ飛ばす、デブのオッサンばかりのトラック。
映写機で地面にポルノ映画を映したりして、超浮かれ気分である。
だが、浮かれるのもそこまでだった。
なぜなら、彼らの向かう先、直線道路の彼方から、食人一家のピックアップトラックがスピードを上げて向かってくるからだ。
その先頭には、まるで船のへさきみたいに、ティナが縛り付けられている。
荷台では、外科医とプレートが、せっせと殺しの準備をしていた。

「車が向かってくるぞ! ど真ん中を走ってくる!」
オッサンの一人が叫んだ。
なんと、一家は、オッサンの車の真正面からまっすぐに突っ込むつもりなのだ。
だが、なぜか運転手のオッサンも負けずにノリノリである。
「チキンレースをする気なら応じてやるぜ!俺は逃げない!」とやる気満々。
だが、接近するにつれて、車の先頭に女が縛り付けられているとわかり、オッサンたちはビックリ。
「よけろ! 相手にするな」と途端に怖気づく。まあ当たり前である。
だが、一家はオッサンたちの車を執拗に追いかける。
逃走は無駄な努力だった。
オッサンたちの車にひらりと乗り移り、一人、また一人とオッサンを殺していく外科医。
ひとり仲間を見捨てて逃げたオッサンも、結局逃げ切れず、川辺に追い詰められて殺されてしまった。

さて、仲間にも見捨てられ、いまやただ一人の生存者となったオッサンはどうなったか?
彼は、息も絶え絶えの状態で、なぜかプレートの演説を聴かされていた。
自慢の白い大皿を見せながら、熱っぽく語るプレート。

 輝くエナメル
 陶器
 これは社会のようだ
 全ての分子が俺のような個人だ
 しかし結合すると形を形成する
 丸い器が有機栄養物を分配するんだ
 我々はこの皿のように力を得る
 群れの中で繁栄していくのだ
 我々は互いに助け合い強くなる
 我々は繁栄を続けるぞ
 そしていつの日か……

なんとも詩的だが、残念ながら完全に意味不明だった。
目をキラキラと輝かせるプレートに対し、オッサンの反応は冷たい。
「お前、頭がヘンだぞ」

川でオッサンを殺した外科医が、ティナの元へと戻ってくる。
拘束を解かれるティナ。
だが、別に助かったわけではない。これからもっと酷いことが待っているのだ。
プレートの大演説を聴かされた、生き残りのオッサンの元に連行されるティナ。
おっさんの口を外科医が強引にこじ開ける。
そして、ティナの手に、砂を握らせるプレート。
どうやら、この砂をオッサンの口に流し込めということらしい。
これはティナを正式な家族にするための通過儀礼なのだった。
彼らはティナを殺人の共犯者にするつもりなのだ。

ブレインは「やめてくれ」と懇願するが、「仲間になるには必要なことだ」と言われ、ためらってしまう。
腕を掴まれて、無理矢理オッサンの口に砂を入れさせられるティナ。
「彼女に人殺しをさせないでくれ!」
ブレインの願いも空しく、オッサンはちょっと砂を流し込まれただけであっけなく死んでしまった。
ついに人を殺してしまった……。
ティナは、人として越えてはいけない一線を越えてしまったのだ。
「神さま!」
ティナの悲痛な叫びがこだまする。
文字にすると盛り上がりそうな場面だが、残念ながらそうでもなかった。
これは素直に演出ミスといっていいだろう。

■ ティナの反撃

さて、舞台はふたたび一家の家に戻る。
おそるおそる、ティナの部屋のドアを開けるブレイン。
あんな体験をさせてしまったのだから、さぞかしショックを受けているだろう。ブレインは不安いっぱいである。
だが、そこには髪をとかしてドレスをまとい、人が変わったように綺麗になった、笑顔のティナがいた。ただし、気のせいか目が全く笑っていない。
ベッドにならんで座り、ハーモニカを吹くブレイン。口からハーモニカを放すが、なぜか音楽がやまない。
なぜ?と思ったら、そのハーモニカの音はレコードから流れていたのだった。ちょっと意味が分からない流れである。
「殺しは娯楽じゃない。生き残るためなんだ」
「分かってる」
ティナの言葉に、理解を得られたと思ったブレインは「気が楽になったよ」と嬉しそうである。
「あなたは普通よ。あなたとなら・・・」
ブレインの頭から羽飾りを外しながら、優しく語り掛けるティナ。
「ぼくは彼らと同類だ。生まれながらに、この身体なんだ」
「いっしょにきて」
「ダメだ」
「殺しを続けるの?」
この質問が、ティナからブレインへの最後通告だった。
「生きるためだ」
ブレインの返事を聞くやいなや、ティナは、彼の肥大した脳を片手で思いきり握り潰した。
グシャッ!
頭から緑色の血を噴き出しながら、床をのた打ち回るブレイン。
ティナはそれを見ながら、すばやくドレスを脱ぎ捨てた。
全ては、最初からブレインを油断させるための芝居だったのだろうか。
ブレインの巨大な脳の中身は空っぽだった。
そこからアルファベットの記された木製のブロックがポロポロとこぼれ落ち、そのうちの幾つかがティナの足元へとにじり寄って、ひとりでに単語を作った。
 L O V E 
愛している。
ティナはそれを、思い切り踏みつけた。
ふたたび足を上げると、ブロックの文字は「 H A T E 」に変わっていた。
手品師もびっくりの奇跡である。
こうしてブレインを殺したティナは、壊れたレコードの音が空しく流れる部屋を後にした。
いよいよ反撃開始だ。

■ 殺人鬼vs老人

一方その頃、家の外には殺気に満ちた老人バイカー軍団が襲来していた。
その目的は、もちろん殺された仲間の復讐である。
それを迎え撃つグラニーババア。
何をするのかと思えば、グラニーは意外にも柔らかな物腰で、老人たちに対してフレンドリーな対応を見せた。

ピースマークをあしらった金の飾りを取り出し、一つ一つジジイたちの額に貼り付けていくグラニー。
その意味不明な行動に、ジジイもババアも拍子抜け、すっかり戦意喪失である。
彼らの目には、グラニーが哀れな狂女に見えたのかもしれない。ジジイもババアも笑い出し、復讐心もどこへやらである。
だが、グラニーがそんな平和主義者なわけはない。その飾りは、実は小型爆弾だったのだ!
外科医の持つ遠隔操作スイッチで、腕や頭を次々と吹っ飛ばされていくジジイたち!
ていうか爆弾だとわかった時点で額から外して捨てろよ、と思うんだが、なぜか自分が吹っ飛ぶのを黙って待っている。完全にアホである。
あと、なぜかそのショックで心臓が爆発するジジイ! これには参った。なにしろ完全に意味が分からない。
心臓が止まって死ぬとか、爆弾のせいで心臓が爆発するわけでは断じてない。純粋にショックのせいで、なぜか心臓がドカンと爆発するのだ。これはホラー映画史に残ってもいい屈指の名シーンである。

そんなこんなで、あれだけいたバイカー軍団はほぼ全滅。
あっという間に、残るは一番ヨボヨボのジジイと、ババアの二人だけになってしまった。
そこに襲来するプレート。妙に豊富な語彙で悪口を連発、ジジイを挑発する。
「覚悟しろ!」と上半身裸になるジジイ。
こうして、よぼよぼのジジイと小人の、世にもシュールな対決が始まるのだった。

サボテンの林立する中を走り回る二人。
ジジイはフェンスの際までプレートを追い詰めるが、小人は不敵な笑みを浮かべて言った。
「追い詰められたのは果たしてどっちかな?」
はたして、土の下から予め隠してあった皿を取り出して投げるプレート! まるで七人の侍である。
プレートが投げた皿が足にヒットし、崩れ落ちるジジイ。
もはや万事休すか。勝敗は決したかに思われた。勝利のダンスを踊るプレート。
だが、あまりにもダンスに夢中になるあまり、至近距離までジジイが忍び寄っていることにも気付かなかったのが彼の不幸だった。
そこに、ジジイの会心の一撃が炸裂! プレートは自身の武器である皿の一撃をまともに顔面に食らい、地面に倒れてしまう。
すかさずジジイはプレートに馬乗りになり、その血まみれの顔を、何度も何度も殴りつけた。
照りつける灼熱の太陽と、迸る真っ赤な血しぶき。静寂の中に、ボグッ、ボグッという生々しい殴打の音だけが響く。
物凄いエネルギーを感じる名場面である。
だが、ジジイと小人の戦いは、こんなものでは終わらない。
ジジイはもはや虫の息のプレートの頭を鷲掴みにすると、力まかせにその首を、胴体から引っこ抜いた。
そして、その首を天高く掲げると、断面から滴り落ちた血を飲み始めたのだ!
このジジイ、根拠はないが、確実にベトナムかどこかで数多くの修羅場を潜ってきたに違いない。
そしてとどめとばかりに、引き抜いた首を、軽やかにサッカーボールキック!
美しい放物線を描きながら飛んでいった首は、外の道路へと飛び出し、何も知らない観光客の車のフロントガラスに直撃して、彼らをビビらせるのだった。
ジジイは満面の笑みでババアに勝利を知らせる。
「はっはー!」
ババアも感極まった表情である。
ふたりは熱い口付けを交わすと、いづこへともなく去っていくのであった。
かくして、正義は勝ったのである。

■ クリエイターの正体

いよいよクライマックスを控え、ここからは再びティナの物語に戻る。
家の中をさまようティナは、ガラスケースの中に臓器がいっぱい並んだ、奇妙な部屋にたどり着いていた。
そこら中が粘液まみれで、ひどく気持ち悪い。しかも、なぜか金魚が床でぴちぴちしている!
ティナがじっと金魚を見つめていると、上のほうから声が響いてきた。独特の、エコーがかったボイスである。
「ティナ、なぜここにきた」
見上げると、そこには、あからさまな変態がいた。

それは、首のない、パンツ一丁のマッチョマンだった。
小さな前垂れのついたパンツには「DYNO-MITE!!」の文字。
その背後の壁には「THE CREATOR」と書かれていた。どうやら、こいつがクリエイターらしい。

クリエイターは、ティナに見せ付けるように、次々とマッチョポーズを決めていく。
すると、そこにグラニーのババアが入ってきて、ガラスケースの向こう側で、なにやらゴソゴソとやり始めた。
ティナとクリエイターの会話には、全く気付いていないらしい。
ガラスケース越しにグラニーの様子を窺うティナに、クリエイターは言う。
「無礼な女だ。普段の社会では拝めない、のぞき部屋を盗み見してる気分でいるのか?」
クリエイターの言葉はとりあえず無視して、グラニーが何をするのかを、ティナは見ていた。
それに全く気付く様子もなく、グラニーはうなじにある穴に謎のホースを差し込むと、なにやら得体の知れない液体を気持ちよさそうに注入し始めた。
なんだか分からないが、これはチャンスかもしれない……。
ティナはすばやく躍り出ると、グラニーの背後に回り、そのホースを掴んだ。
ティナの行動に不意を突かれたグラニーは、大声で叫んだ。
「ブレイン! また目を離したね!」
「彼はブライアンよ」
この家から逃げたくても逃げられなかったブライアンの無念を晴らすかのように、グラニーに接続されたホースをぶった切るティナ。
グラニーは緑色の血を流しながら、ドロドロに溶けてしまった。ここのSFXは、まさしく職人芸、匠の業である。
かくして、ブライアンの仇は討たれた。
まあ、「ブレインを殺したときにティナが見せた、まるで汚物を見るような目は何だったの?」と思わなくもないが……。
とにかくティナはティナなりに、ブレイン……いや、ブライアンの境遇に同情していたのだろう。

「満足か? おまえは殺人を犯したのだ」
一仕事やり終えたティナに、首なしマッチョが語りかけた。
モニターには、次々と悲惨な映像が映し出されている。
車の事故、戦闘機、竜巻、ネズミ捕りの罠にかかる鼠……。
マッチョは続けて言った。

 人は破壊するために創造する
 それが本能だからだ
 支配と操作が行われ
 避けることのできない最後を迎えるだろう
 学ぶことなく間違いを繰り返すのだ
 お前は追い詰められた
 哀れな創造物だ
 日常生活の恩恵という行為を
 暴力で抑制しようとしている
 私は引力
 欲望
 求愛
 征服
 戯れ
 前進
 概念
 私こそが進化なのだ
 慣性であり
 力だ
 我こそは
 創造なり

またしてもポエムであった。
なんかそれらしいことを言っているようだが、そもそも場面に合ってないし、意味も分からない。
いきなり上から目線で説教されても困るし、返事のしようもない。
ティナが戸惑っていると、さらに斜め上のサプライズが彼女を襲った。
なんと、マッチョポーズを決めるクリエイターの胸が見る見るうちに裂けていき、中から何かが勢い良く飛び出したのだ。
それは、粘液にまみれた、触手の生えたオッサン顔の赤ん坊だった。
その造形の気持ち悪さは、フランク・ヘネンロッターかチャールズ・バンドかと言った風情で、間違ってもギーガーやクローネンバーグのような芸術的なものではなかった。
パッと見の雰囲気はフルムーンピクチャーズの『ホムンクルス』という映画のそれに近い。つまり、直球で悪趣味かつお下劣なのである。
そんなヌメヌメドロドロの赤ん坊オッサンが飛びついてきたのだから、ティナは大パニック。
必死で振り払うと、赤ん坊オッサンはそのまま傍らの臓器入りガラスケースに頭からダイブして、バリーン!グチャ!となってしまった。
すると、なぜかひとりでに苦しみだすクリエイターこと、首なしマッチョ。
「もしかして、いま潰れた赤ん坊オッサンが本体だったのかな?」と思ったら、どうやら違うらしい。クリエイターがダメージを受けたのは、ガラスケースの中身の内臓が潰れたせいだった。
この部屋中に設置されたガラスケースと、その中の収められた無数の内臓は、全てクリエイターの外付け臓器だったのだ!
そうと分かれば話は早い。ティナは鉄パイプを手に取ると、周囲にあるガラス容器を片っ端から壊して回った。
なんで内臓が外付けなのかはよく分からないが、まあマッチョの身体には内臓の変わりに変な赤ん坊が入ってたし、そういうものなのかもしれない。
見る見るうちに弱っていくクリエイター。
だが、クリエイターは、瀕死になりながらも、最後まで力こぶを作り続けていた。マッチョマンのプライドだろうか。本当にアホである。

クリエイターも死に、これで一段落か、と思ったティナだったが、そこに外科医が姿を現した。
そう言えばこいつ生きてたっけ……。なんかイマイチ印象が薄くて、すっかり忘れていた。
ともあれ、いよいよ最終決戦である。
さぞかし壮絶なバトルが繰り広げられるのかと思いきや、あっさり床に転がされて追い詰められるティナ。
あわや大ピンチ! と思ったら、どこからかフィンフィンフィンフィンフィンフィン……と、アダムスキー型円盤でも飛んできそうな電子音が聞こえてきた。
何の音だろうと思っていると、なんと、死んだかと思われた赤ん坊オッサンが、触手を振り乱してティナに飛び掛かってくるではないか!
だが、ティナはそれをあっさり両手でキャッチ! そのまま外科医の顔めがけて押し付けた。すると、唐突にピタリとBGMがやんだ。
何が起きたのか……と思っていると、ああ、なんという悲劇! 外科医がそのトラバサミのような鋼鉄のアゴで、赤ん坊オッサンの頭をウッカリ噛み千切ってしまったのだった!
まったくもって本当にどうしようもない、脱力のゲンナリ展開である。

しかし、当事者にとってはこれは大きなチャンスだった。
ここでティナは、すかさず反撃に転じた。
反撃と言っても、妙にのっそりした動きで、外科医に逆さでんぐりがえしキックを見舞うだけなのだが……。
だが、緩慢な動きの割には勢いがあったのかして、外科医はそのキックの威力でよろめいて、高圧電流の配電盤みたいなのに倒れこむと、そのままビリビリと感電してダウンしてしまった。

クリエイターのパンツの、「DYNO-MITE!!」と書かれた前垂れの下をさぐるティナ。そこにはなぜか、ダイナマイトが隠されていた。
もはや「なぜ」説明する気もないのだろう。見ているほうも、突っ込む気にすらならない。
起爆まで残り40秒。それを外科医のコートにくくりつけると、急いで外を目指し、ティナは駆け出す!
外科医も意識を取り戻し、緩慢な動きでティナを追うが、こいつはどうも頭が鈍すぎるようで、身体にダイナマイトがくくりつけられているという状況が、どうも理解できていないらしかった。ダイナマイトをぶら下げたまま、のそのそと廊下を追ってくる。
ティナはベニヤのようなペラペラのドアを突き破って、外に脱出!

その頃、外科医はようやく気付いたのだった。自分の身体にダイナマイトがくっついていることに。
だが、もう時既に遅しである。外す間もなくダイナマイトは爆発し、外科医の体は激しい炎に包まれたのだった。
全ては終わったかに思われた。
だが、黒コゲのバーベキューなりながらも、外科医はまだ生きていた。
しぶといノコギリハゲだ。

ティナは庭に停めてあったバイクにまたがると、外科医に轢き逃げアタックをぶちかますべく、エンジンを始動させた。
ブライアンから教わったバイクの操作が、いよいよ役に立つときが来たのだ。
ちょっとご都合主義的ではあるが、映画なんてこんなもんである。気にしたら負けだ。
膝をつき、命乞いをする外科医を見つめながら、ブオン、ブオンとアクセルを吹かすティナ。

すると、不意に彼女の脳裏に、死んだ家族の幻が現われた。
パパも、ママも、弟も、みんなが笑顔で、ティナのことを見つめている。
幸福の象徴である白い鳩や、白い兎などの動物もいっしょだ。

フィル「ティナ、殺すことはない」
グロリア「殺せばあなたも同類になる」
マシュー「許すことも大切だよ」

「うるさい!」
妄想をかき消すように、ティナは絶叫とともにアクセルを全開にした。
外科医を思い切り轢き殺す。
まさしく気分爽快であった。

まだピクピクと動いている外科医のバラバラ死体を尻目に、ティナはこの狂った家に、今度こそ別れを告げた。
(一瞬挿入される、鬼ハンの子供用バギーに乗った幼いティナの映像がシュール)
バイクに乗って、走り去るティナ。
その時、クリエイターの身体にしかけられたダイナマイトのタイマーがゼロになり、キ○ガイの巣窟は、円谷特撮みたいにミニチュア大爆発を起こした。
まさかここでミニチュアを爆破してくるとは思わなかったので、本気で驚いた人も多いだろう。お前は『ビッグ・バグズ・パニック』かと。
爆発するミニチュアをしっかり映したい気持ちは分かるが、カメラが回り込む速度が速すぎて、どう見てもギャグにしか見えないのはどうなんだろう?
複数のアングルから撮って、ジャッキー・チェン方式で連続で流せばいいだろ……。

■ 保安事務所

バイクを飛ばし、保安官事務所にやってきたティナ。
「助けて!」
慌てて駆け込んだ拍子に、書類を運んでいた女性にぶつかってしまう。
床にばら撒かれる、写真の束。
「早く来て!」
「みんな殺されたわ!」
ティナは涙を流して助けを求めたが、保安官は「オフコース、オフコース」というばかりで、いっこうに取り合おうとしない。
「見た顔だね」
「そうよ!」
「たしか家族といたな」
保安官の表情が、どんどん顔が険しくなっていき、そして……


さて、このあとはもう一分ほどでエンド・クレジットが流れ始めるわけだが、ここから先の展開は、このネタバレし放題の批評に残されたささやかな良心として、ここでは触れずにおくことにする。
なので、この後に何があるのかは、ぜひあなた自身の目と耳で確かめて欲しい。

まあ、そんなわけで、長々と書いてきた、ロックウェル一家と田舎のキ○ガイを巡る物語は、これで終わりだ。
しかし、一家の創造主であるクリエイター自身も、どうみても作られたバケモノであるあたり、本当の創造主はまだ別にいるのかもしれない。
ここは一つ、ブライアン・ユズナあたりがプロデューサーになって、ガブリエル・バータロスに二作目、三作目と、末永く『バーサーカー』シリーズを撮らせてやってほしい。
監督本人が撮る気がないなら、いっそのことユズナが撮ればいいような気もする。
雑な言い方をすれば『死霊のしたたり』+『悪魔のいけにえ』みたいなもんなのだから、意外と適任だろう。

今回は時間がなかったため、書ききれなかったことも多いが、これはひとまず序論としておいて、いつの日か真の『バーサーカー』論を完成させたいものである。
最後になるが、この批評を通して、ひとりでも多くの方に世紀の傑作『バーサーカー』が認知されれば、これに勝る喜びはない。

Skinned Deep - Trailer
http://www.youtube.com/watch?v=BCes-mHs7NE

学習塾に関する一考察/奥主 榮

 一九九〇年代に差し掛かる頃から、小中学生の学科試験での点数の分布が、二極分解してきました。
 それまでは、平均点をピークにして左右に緩やかに低くなっていくというグラフを描いていたのですが、この時期を境に、平均点が谷間になり、その左右に二つのピークが生まれるようになってきました。学校や予備校、学習塾にテストを納入している業者は、「どうして正常なベル型分布になるようなテストを作成しないのだ」というクレームに悩まされることになります。しかし、学校内で作成される定期テストの結果も、こうした二つの峰を持ったグラフで表される結果を生んでいます。
 こうした結果が現れるようになった背景には、子供たちが勉強に向かう姿勢が、昔のように「みんなが同じように頑張っても、結果が変わる」という状態から、「それなりに頑張る子と、最初から放棄する子に分かれた」という状態に変化したことが大きいと考えられます。勉強が好きでも嫌いでも、なんとなく「やらなければならない」という意識が支配していた時代から、「やるかやらないかは、自己責任の選択」という意識の時代へと変わったのです。勉強をすることを選択した子達の中の平均点で一つのピークがあり、勉強しないことを選択した子達の平均点の中でもう一つのピークがある。そうした状態です。

 そうした時代に、教育が何を行えるかと考えていくと、公教育には実は大きな限界があります。万人に平等な教育の機会を与えるという理念は、二つのピークが存在する現実とは相反し合うものだからです。公的な教育の場で、「ここにターゲットを絞って」と想定される平均点前後の子供たちは、もう存在しないからです。それでは、教育産業は、平均点より高い層と低い層と、二つの層を意識して個別化しているでしょうか? 現実は、まったく異なります。
 今、新聞を定期購読している家庭がどのぐらいあるのかは知らないのですが、少なくとも新聞にはさまれてくるチラシを見ている限り、多くの学習塾では「○○校○名合格」といったキャッチコピーを、毎年受験の時期に出します。いわゆる「偏差値の高い学校」の受験生をターゲットにした、こうした広告は当然、平均点以下の子たちは排除しています。「極力、上位の学校を目指したい」という家庭を前提にした商業企画は、実は単純計算では子供の半数である「平均点以下の結果に悩んでいる子」を退けたものです。学習塾のほとんどが「上位校合格」を実績として掲げていることによって、同業者とのシェアの奪い合いを続けている中で、「平均点以下の子」を教えることは、なぜさけられるのかと言えば、まず教務面からの問題があります。勉強が苦手な子に教えていくには、教材と教師のスキルの双方が求められます。学習塾は、この二つに枯渇しています。
 書店に行き、学習参考書の棚を見回せばわかるのですが、商品として売られている教材は、やっぱり成績上位の子を対象にしています。それは、塾関係の教材でも変わりはありません。(ただし、最近では成績不振に悩む子のための市販の教材や、塾を対象に売り出されている教材の中にも、徐々にそうしたものは増えてきました。) かなりの覚悟を持って、自作の教材を準備し、同時に同じ説明を何度でも繰り返すことにも慣れていかなければなりません。でも、どちらも楽そうに見えて、困難です。
 成績の悪い子を塾が教えたがらないことには、イメージの問題もあります。身もふたもない言い方ですが、「成績不振児に効果がある」ということは、同時に子供たちの間に「バカの通う塾」というイメージも植えつけます。サービス業である学習塾の経営では、避けられる行為でもあります。最近、成績不振の要因のある子の指導もしますということを宣伝文句に掲げた組織がありました。この組織の場合、最初から細かな成績差を見極めて、最も適切な指導を行うことを繰り返し発信していました。この企業の場合、そうしたイメージが幸いして、きめ細かな指導という印象を強化しています。

 そうした背景の中で、成績が平均点以下の児童への教育産業は、本質的な意味でのニーズに応えられないままに終わっています。
 先述の、成績不振児への指導の相談を宣伝文句にした企業も、成績を向上させることが学習産業の目標であるという先入観は払拭しえていません。しかし、実はその「成績向上に限界がある」という事実を前提にした上に立ち、サービス業としての「教育」に携わる組織が生まれたときに、教育に関する企業の、新しい可能性が生まれてくるのではないかと僕は考えています。
    2013年 1月 31日 奥主 榮

エロい詩(感想文と妄らな空想)/木屋 亞万

これから私は慣れないことをする。
感想文を書くのだ。
詩で、しかも中也の詩で。

中原中也の詩に「月夜の浜辺」という詩がある。教科書に載っているくらい有名な詩なので、馬鹿な私でも知っている。裏を返せば、私は教科書に載っている詩くらいしか知らない。毎日大量の文字情報が、紙媒体やネット媒体を通して、私の目の前に現れては、覚える前に消えてしまう。それなりにがんばって読んではきたが、はっきりと思い出せる作品となればその数は非常に限られている。
そのうちの一つが「月夜の浜辺」だった。今でも覚えていられるのは、教科書に載るほどすぐれた詩である由縁なのか、それとも授業で繰り返し読まれたから頭に残っているだけなのかはわからないが、とにかく本題に入ろう。
まず結論から言ってしまえば、この詩はエロい。とてつもなくエロティックな雰囲気に満ちている。直接的にエロいものはこの詩には一切登場しないし、陰部もセックスも描写されていない。
それでも、この詩を読むととてつもないエロさに包まれる。それはなぜなのか。その要因の一つとして、言葉の持つ暗示性が挙げられるだろう。例えば詩の冒頭の「月夜の晩に」というフレーズにしても、「月」「夜」「晩」という3つの言葉で夜が強調されている。夜という象徴が含み持つのは、「男女の営み」のエロさだ。そのことを考えようとするとき、まず頭に浮かぶのが、萩原朔太郎の「猫」である。短いので全文引用する。


まつくろけの猫が二疋
なやましいよるの家根のうへで
ぴんとたてた尻尾のさきから
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です

(萩原朔太郎『詩集〈月に吠える〉全篇』  http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/859_21656.html
 

 専門家の解説や読解を聞いたことがないけれど、私はこの詩にもエロさを感じる。(詩じゃなくてお前がエロいんじゃないかと言われれば苦笑いするしかないが…。)
具体的に見ていくと、「ぴんと立てた尻尾のさき」が男性器を、「糸のやうなみかづき」が女性器をそれぞれ象徴している。「二疋」が一対の男女を暗示し、そして詩全体を支配するのは、「なやましい夜」という状況。この流れの中にあっては、「ここの家の主人は病気です」というフレーズすら、単なる風邪、発熱の類ではないことを思わせる。
また中心的に登場する猫は語源が「寝子」であると言われているほどに、眠ることと深くかかわりのある動物である。その猫の鳴き声もまた、男女の営みの結果として生まれ出てくる赤子のような声をしている。そうなると、この二疋の猫もまた、象徴的にいずれ生まれ出る双子の子ども、あるいはやがて合一してひとつの受精卵となる精子と卵子として語られているような気さえしてくる。
さらに、市井の猫は夜な夜な周囲に響き渡る声を上げながら交尾するという、私の個人的ステレオタイプも相まって、「猫」は紛うこと無きエロさを持った詩であるように思えてしまうのである。
「猫」は「男女の営みの真っ最中の家の屋根の上の猫の会話」という官能性だったが、一方の「月夜の浜辺」は後の祭り的な事後の孤独を思わせる。この「月夜の浜辺」での主なできごとはといえば、「ボタンを拾って袂に入れる」というだけである。
この落ちているボタンに対して、みなさんはどのような想像を働かせるだろうか。私は野外での男女の営みを連想した。お前は真顔で何を言っているんだという話だが、人気のない夜の浜辺でボタンが落ちる要因として、他にどのような状況が考えられよう。男が女の服を脱がすときに、焦ってすこし荒々しくなってしまい、外れて落ちたボタン。そういうドラマが詩の背景にあるように思う。
この詩には、ボタンへの不思議な愛着は語られても、ボタンの形状・色・素材に関しては一切語られていない。もちろんそのボタンが落ちた経緯についてもだ。そのため、読者はボタンに関して、好きに想像してもいいのではないだろう。例えば、男二人で取っ組み合いの殴り合いをした結果、胸倉を掴んだときにボタンが外れたのだという想像も、別に否定するつもりはない。
しかし、そのボタンが捨てられないということの理由を考えたときに、私はボタンの落ちた原因として「男女の営み」説を推したい。別に「夜の営み」の持つ官能性ということだけを強調するなら、男同士でもいいし、女同士でもいいはずなのだが、その営みの後に「放られ、捨て置かれたボタン」という存在のことを考えたときに、これはやはり「男女の営み」なのではないかと思うのである。
ボタンが外れ落ちてしまうような、情熱的な男女の営みのあと、ぽつんと孤独に落とされていたボタン。そのボタンの孤独は、詩の話者である主人公の抱え持つ孤独と共鳴しあっている。この詩の話者はまた、ボタンを指で触れながら、自分もまた男女の営みの末に、この世に抛り捨てられたひとつのボタンに過ぎないのだということを痛感したのではないだろうか。海という言葉が母親を象徴しているならば、その波打ち際に落ちていたボタンというのは、やはり赤子であり、自分自身である。その境遇を捨て切れず、けれど何かに役立てられるわけでも無く、捨てられるようにこの世に生まれ落ちてなお、命を袂に入れるようにして生きているという姿勢。そのことを「ボタンを拾った私」という主体を通して語っているのだ。
「『月夜の浜辺』は青姦の詩である」というと、「ハァ?」と中也ファンの皆様に睨まれてしまいそうであるが、「『月夜の浜辺』は眠れない夜に浜辺を散歩する孤独な人間が青姦後のボタンを拾う詩である」と言えば少しは納得していただけるかもしれない(いや無理かもしれないな…)。
改めてこの詩から連想することを、文章として書き出してみるとこの詩の底流にある言いようの無い孤独を感じることとなった。冒頭で覚えている理由がわからないと書いたけれど、この詩に息づく孤独が、私の心に潜む孤独と共鳴しあい頭に焼き付いて残ったのかもしれない。(当時は青姦=エロい、という発想しかなかったのだけれど…)
この詩が入った詩集『在りし日の歌』に「亡き児文也の霊に捧ぐ」と書かれているように、中也はこの詩を書いた頃に子どもを亡くしている。そのことを考えるならば、(詩の文章以外から内容を読み取ることは好きではないのだが)このボタンは幼くして亡くなった子どものことを象徴しているのかもしれない。

月夜の浜辺

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛(はふ)れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

(中原中也『在りし日の歌』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000026/files/219_33152.html
 

こんなことを考えながら作品を書いている/01 Ceremony.wma

私は、「だから」、貴方達の言葉にいつもうんざりする
                          『祖母』より



 読経が鳴り響く中で、唯一声を発さない静止物があった。私は、それを「人」として呼ばなかった。「他者」でもなかった。読経の中に、誰かのすすり泣く声が混ざって来た。また、声の裏側に、見知らぬ人や見知っている人の声にならない言葉があることもわかっていた。世俗的生活の中で、多くの苦しみや悲しみ喜び、があった、だろう。そして、人々のまなざしも、あっただろう。
 死体を取り巻いて行く声、そこには、憎悪もあるだろう。読経の意味すらわかっていない人たちが、浄土三部経を祖母に送っている。釈迦は、菩提樹の下で、一度、入滅しようとした。そこには、釈迦の諦めがあった。仏教の釈迦の神話には、決定的な諦めが初めにあったわけだ。彼は、誰も自分が悟ったことをわからない、として入滅しようとしたのだから。だから、私は仏教が結構好きだったりしている。この諦めは、仏教の思想の全体を語っているとすら思う。
 祖母の死体を見た時、その体に、耳なし法一のように言葉が書き連ねてあるように見えた。それは、他者の声みたいなもので、罵声や怒り、喜びや感謝など、ああ、こんなふうに、死ぬ時も、人はいろんな言葉を投げかけられて、思われて死んでいくのかと思った。その声は、世間、といわれるようなものから、小さい地域共同体の中の人間関係の中で生まれた、ものではなく、歴史的なもの、もっと古い古い場所から来ている声も含まれているように感じた。
 
読経は、三陸を削り、降灰は、積雪を、頭にとどめる



 歴史的な声、それは、死んだ人すらも縛る声、そんな声は、恐らくこの国の国土も削ってきただろう、とふと思った。

貴方は、恐れをなさず、功徳の一切を、路肩に落とし、有為の花を、喉仏に宿す、遠方から人が着き、隣から、着流しが崩れる、骨は、鳳仙花の、ように、ふくらみ、紫陽花は、胸に、飛来する、口篭る、ままの、頬から、一本の、線が引かれ、寒さは一気に引く、目は浄土の、土の香りを嗅ぎ、足は、涅槃の、瞼につく、わたしたちは、見送るが、あなたはもう、みえないばかりか、体からは煙を吐き出し、煙突のない、家で、静かに篭る、白いのはあなたではなく、わたしたちが白くなったのだ、と、仏間に置かれた、果物がつげる、骨は塩をたれ、たれた塩は、舌の上で、酸味を広げようやく寝そべる、



 祖母が死んだとき、私は、祖母が確実に死ぬことを悟った。母と父が祖母を起こしに行ったきり帰ってこないので、様子を見に行くと、どす黒い嘔吐物があった。母と父はそれが吐血だと気づかなかった。でも、私はその時していた仕事の関係でそれが血だとすぐにわかった。そして、祖母が死ぬことを悟って、父と母に「たぶん、死ぬと思うから、もう見送りという意識で、見送ってあげた方がいいよ」と言った。祖母は、吐血しながら、自分の指輪を外し、母に渡そうとしていた、母はそれを拒否した。気が動転して、拒否した。その拒否は、祖母の死を否定するための拒否だった。
 外で、姉と妹が救急車を待っていたので、「もう助からないと思うからお別れした方がいいと思う。まだ意識はあるから」と姉と妹に告げた。
 吐血し続ける祖母、震える手で指輪を渡そうとする祖母、それを見守る母と父、その光景に、三法印を見た。
 涅槃寂静、諸法無我、諸行無常。そして、こういう行為は、多くの家族で行われてきた。私たちが生きている限り、行われ続けられる行為。一切皆苦。
 それと同時に、その行為のまとなりで、全く別のことも行われているのも事実だろう。一つの死は歴史に残らないが、その一つの死すらにも歴史はのしかかっている。葬儀の際の因習や血縁関係、財産分与、など様々に、地域共同体内での位置など。喜びや感謝もある。
 
 だからこそ、私はいつも「貴方達」の言葉にうんざりする。

 祖母の死が悲しかったわけじゃない。死にまつわる多くの事柄が悲しい。自分が死ぬ時も、多くの声に晒されて、もしかしたらその中には、怒りも、罵声もあるかもしれない、感謝の言葉もあるかも知れないが、私は、そういうものが嫌だ。
 究極的な条件下で、いかにして戦える言葉を、詩を作りだせるか、そこに到達できるか、それを考えている。

即興する、嘔吐物の、頂点から、石弓を引く、大和の呪いだ、と、神々は雨垂れ、に似た、うな垂れの中で、うるさく頭をたたくものだから、昨日からはなすことをやめた、例えば、ここからまじめに求められるような文章を書いたって、石を積み上げる小僧の首に届かないでしょう、と、貴方は言う、じゃ、例えばをはじめてみようかと思うが、すぐにいやになる。それは、こんなかんじで、「床下にたどりつくと、土の匂いが手足を伝って鼻まで這い上がってくるのがわかる。彼らは、鼻腔の奥にかすかにのこっている外の香りに異常に反応するのだ。その反応を僕はこめかみで処理しようとして、眉間にしわを寄せるが、その様子を見て、友人が尻をつつく。早く行けと、彼はいう。懐中電灯に照らされるいくつもの柱には蜘蛛が陣取って、僕らをやりすごそうとしている。友人の懐中電灯が、この空間の隅っこを照らした、そこには、」いやになる。「水星から落下した、クジラの寝息の上で、セーターを編む、時に、くしゃみした、やまちゃん、やまちゃん、と、思い出しながら声をかける、たけるくん、たけるくんの、メガネはいつも曇っている。曇っているのは、彼がやさしいからだ、彼は落下した、クジラの、骨に挨拶をする、古くなった鼻骨、そして背骨、背びれに尾びれ、と、脈拍は空気に混じって酸化して、その酸っぱさの中で、息を吸い込む。」いやになる。



 昨日は死を願い、翌日には、寂しさを謳う、そして、男が群がる。男は、挫折を謳い、女はそれを慰める。そんな人間は嫌いだ。そしてそういう人は、恐らく、私が勝手に名付けている「浅い幸福と浅い絶望」の間を行ったり来たりしながらぬるく生きていくのだろう。でも、本人たちは「浅い」と思えない。底なし沼のように思っているのだろう。私はそれを許せないし、許さない。なぜなら、そういう人たちは、それらを上手に利用しながら生きていくからだ。だからこそ、どこまでいっても「浅い絶望と浅い幸福」なのだと思う。

 うるさい声を、自分が死んだときすらも、生きている時すらも取り囲む声を、かき消すには、自分で大声を、周りの声が聞こえなくなる位の強い声を、あげるしかない。その声をあげるために、どうすれば良いか、その声はどんな声か考えている。

仏の、唇に、たれた、雨垂れの向こうで、羅漢、達が、踊り、浄土、三部の、お経の、内から、たち現れる、人の、後姿に、前姿に、めをうばわれ、蛙はがはねると、同時に、遠くを見る、雨、と、口にする、甘さが、瞳に、耳に、手は自然と、うなだれ、爪が伸びる、草が分かれる、自然に、道を作る、砂浜は、苦い、近くで挨拶を拾う、言葉に、夜に、昼に、体を、投げ打つ、打ち捨てる、



 絶対的な静寂が欲しい。自分の存在すらもかきけされてしまうような静寂が。私は人が寄りつかないような場所に夜行って、暗闇の中でぼんやりしている時が一番心がいやされる。自分の体すらも見えないような暗闇が特に良い。だからこそ、人の何倍も荒れ狂うことができるし、人の何倍も静寂の中に身を置けるしこのむ。自分をむしばんでいると同時に、自分を成立させている者たち、人たち、人であった者たち、共同体、家族、歴史、あど、この体も血も何かが刻まれている、何かがいたからこそ、誰かがいたからこそ今ここにある、そういうものから。事実から、身をひきはがすことは絶対にできないからこそ、憧れる。
 色即是空。私たちには実体がない。本質などない。私は私ですらもない。老いも死もない、生もない。あらゆるものがない。虚無ですらもない。世界もない。愛もない。なんと心地よいことか。 
 
menu
最新コメント
最新トラックバック
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR